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きづかない疑問と隠された疑惑 阿智村編

 議会報告(今年度の村予算)と懇談会
 熊谷時雄氏が議長になった時に、彼が西地区の住民を集めて始めたのが最初である。
その時は、自治会長との連名で回覧板が回った。(公職選挙法に抵触することを無視する、“彼等”のやり方)
おもい通りの、“議長”、になったのがうれしいのか、地元に錦のつもりだったのかは兎も角も、違法で在ることにも気づかない程度の知識で、議長になれたものだと、逆に感心した。
 私は顔を出したことはないが、引き連れてきたメンバーを聞けば、「あ~やはり」と情けなくなった。
上原耕平、中学の同級生 これのお粗末さは今更話すこともない、村中が知っていること。 それに村職員(今の地区議員)この三人で何を話すつもりだったのだろう。(〃ノωノ) 
(西の人たちは、悪いことでも言えずにいる。いや、言わずにいる、ほう)
(時雄氏には、父親が選挙妨害を受けたとき、公職選挙法を持参して、事細かく警察上がりの人が教えて上げたのに)
 それが、いまも続いている。
 ここではっきり高坂議長に教えましょう!
 議会報告は、“議会たより”、で毎回住民に配布していますね。それだけで良いのです。
それでも話したいことがあったら、自身の後援会を開催して伝えることしかできません。
議員が村の予算報告をするなんて、考えられません! それでも、「それは違反してない! 予算報告して何が悪い!」、は時雄氏の口癖。 百歩譲って開催させても、そこに参加した住民との意見交換、要望を聞いたら即、違反、これはもう犯罪です。
 高坂さん、中関で開催したときは、私の文書が出回った後ですね。その議会報告会の席で、共産党員の佐々木幸仁さんに、私の事を「キチガイだ」という発言をさせていますね。
あなたは、議員報告会の名のもとに『共産党会議』を、行ったのですよ。 それなりの覚悟はしてください。  焦っているのか、足掻きがあまりにも見苦しい             平成28年6月8日 

 見ていてくれる人が混乱しないよう、ぼつぼつ彼を登場させないと   羽場睦美さん
森林税に少し登場させたが、彼のサイト(売名しか感じない)もあることだし、少し、辛らつに書き出します。
 あなたの話術は、それなりにしっかりしているとおもいます。行動的なのもよいでしょう。でも、腰がない、足が地についていない。
 熊谷時雄氏が議員時に、園原部落にうそを言ってまで強引に進めた『水子地蔵』、落石事故の一件、浪合まで訪ねあなたに相談したときの最初の言葉、「落としどころを考えないと」
 NPOは非営利団体、岡庭一雄氏に抱き着いて、“園原資料館”、をビジターセンターに変えた人。
彼等のたくらみを知ってか知らず、海外まで村のお金で行った人。挙句の果ては数百万、村のお金をかけたそのビジターセンターのあなたのプラン。 水上宗光や時雄の謀略の中で、そっとゴミ箱に捨てた人。
挙げていけば切りがない、そこから先は駒場の人たちが、『ちゃんと』分かっていらっしゃる。
 あなたの足りないところを指摘します。
父親が苦労して作り上げたあなたの母体、照れることはないから、尊敬しましょう。そして、あなたの親が、もっとお世話になった、実際にその母体を造った、左京電気興業の羽場初雄さんの父親に、感謝の意を表しましょう。                             平成28年6月9日   (水子地蔵工事における落石事故! この一件が、官製談合につながっていきます)

 高坂さん、議会議員の報告会の件で私が指摘したことは、私が三つ以上の事件としていつでも提訴できること。それが分からなければ、そちらの弁護士に聞いてみてください。私に同調して、ほかの地区でも起こったら村は収拾できませんよ。
 岡庭村政時に、二人の職員と西部衛生の方が、事故と病気で亡くなっています。
職員も、村の人も、飯田下伊那の心ある人たちも、もやもやした嫌な感じがするたびに、このことを思い出す人もいます。 このことは、最終章で明らかにしますが、事故で亡くなった熊谷哲と奥さんは私の中学の同級生です。
 十年前、奥さんに一通の手紙を書いています。そこには、彼等の犯罪を明らかにして、哲の無念を晴らしたい旨を綴ってありました。奥さんの電話口、いまでもはっきり残っています。「章文君ありがとう。私、一番信頼している人がいるの。その人に見せます。」
その手紙、あなたが受け取ったのではないですか? そしてあなたが言ったこと、「大変なことが書いてある」その、大変なこと、哲の無念ではなさそうですね。
 心当たりがあるならば、哲の奥さんに両手をつくことから始めないと、自分自身の言い訳さえも残らないですよ。

 私の親戚だからハッキリ書くが、国労あがりの党員がいる
そのはら SS スタンドの継続に、本気で取り組んだ。 その熱意には頭が下がる。が、しかし、始末が悪い
地区のため、強いては地区民のために始めたのだから!を、繰り返し、自治会の貯金(これも不思議だが)を資本金や資金繰りに充てている。(私は福祉にしか使えない“隠してある”賃貸料の借り入れを申し込んだが、時雄が猛反対し、時雄が彼に「自治会の金を使え」と入れ知恵させた)そのことが、悪いことだとわかっていない?!
 もっと驚いたのが、いまの地区議員、「自治会役員とスタンド役員で決めたのだから、何も問題ない!」と(@_@)
 阿智村議会が心配になりませんか 園原の、私を攻撃する二三のひと以外の人たちは、聞いていて恥ずかしかったと思いますよ (〃ノωノ)                      平成28年6月14日

 岡庭村政二期目から
 共産党の 共産党による 共産党のための政治
 十年前、質問状を議長に預けてから、本議会の一般質問を傍聴していた。
共産党の女性議員 何を話しているのか? 聴き取れない。 公明党の彼の同級生が質問を始めた。「あの事業、村長の進め方はとても良かった。 この事業、村長の考え方はすばらしかった! 云々などなど 」 とても聴いておられず退出したが、このこと、公明党員が聞いたら怒り出すのではないか? と、おもうほど、呆れてしまった ($・・)/~~~  平成28年6月15日

 これから、面白い話二つと、一つの辛いはなしを始めます
 まず、面白い話し  今現在も、園原部落会のなかで、私が論理的な話を始めると「ばかやろー!ばかやろうって言ったらばかやろーだ!」と大声をあげる、操の甥がいます。彼の事は、西地区のみなさんが知っていますからどうでもよいですが、「うるさい!黙れ!でたらめ言うんじゃねえ!」と、これも大声を上げる二人目の話です。                        平成28年6月16日

 コクサイと吉川建設が、阿智村智里の京平(地区が開墾した放牧山林)にスキー場を開設する話がもとになります
 ロープウェイとテレビ局は昼神温泉で予定されておりました。ロープウェイは網掛山に架構するとしましたが、昼神の景色だけでは、とても無理な話です。 石田さんは、起業家ですからロープウェイは既定路線です。全国のロープウェイの中で、安定しているのはやはりオールシーズン式、スキー場との併設です。そこで、白羽の矢を立てたのが、京平
 実は、京平を勧めたのは私。 石田さんとは、昼神ロープウェイの話の時点でお会いしてました。
妻の姉は石田さんと親交があり、その伝手で紹介してもらいました。義姉と三人でお会いした時には、石田さんは昼神ロープウェイの計画図を持参し、それには周辺開発も含まれていました。「これはただ画かせただけだから、参考にならないかもしれないが、もっと良いものを計画してください」と渡されております。                                 平成28年6月17日

 ロープウェイと飯田放送局に2、30億という。 放送局は多々を絡めている様子。 ロープウェイはオールシーズンをベースにしなければ失敗する。と、京平は大和イワナの源流!だと 熱く未来(先)を語った。
 〇〇さんの義弟ならと、最初から信用していたと、だから私たちの計画図を持参したと、石田さんから「行きつけの店がある」と、二次会に誘われた。「熊谷さんにちょっと会ってもらいたい人がいる」と、なれない携帯をしていた。ほんの20分も経たないうちに、顔を出したのが吉川光圀さん。
なにか二三話してた。少し息を切らしながら「・・・」と、私の手を握ってくれた。    平成28年6月20日
 それから飲み屋で二人の姿を見かけることがあったが、二人してきさくに声をかけていただき、同席したものである。

 スキー場を開発するにはプロジェクトを組まなければなりません。それを伝えると、吉川光圀さんから、「うちの土木から人をまわします。」とのことであった。 暫くたったが音沙汰がない、「まだなにもありませんが?」と、電話を入れたら、「言ってあるが? 行かせますので!」と、〇〇が、私の事務所に飛んできた。
 彼は知っている人だった。 祖父勲の義兄弟 園原郵便局長の入婿だった。 奥さんとは身内のような付き合いをしていたから、見かけたことがあった。(これが、大声を上げる二番目の人)
 変なプライドがあるのか、人の話を聞こうともしない。 出てくる話は、『俺は吉川で監督をしてきた、一流でないとグランドホテルなんて名乗れない』と、飛ばされる予定だった先までも話し出した。 ため息しか出なかった。

 それからどれくらい経ってたのだろうか
 例によって音沙汰がない。もう光圀さんには電話を入れられない。呼び出ししてもらっても留守であった。 やっと、行先つかずから電話が来た。「そんなに簡単に進むもんではない! 俺は京平の山に何度も上がり、この足で頑張っているんだ。いちいち電話を、俺がやっているんだ!」 荒々しい口調であった。
 心配していた通りの受け答え、スキー場の企画開発なんて土建屋のできることじゃない。かといって、そのプライドに踏み込めない。 組めないプロジェクトとチーム、やはり、基本的なことから、〇〇を含めて遠回しに教えなければならないとした。                平成28年6月22日

 一番最初にやることは
 真っ白い紙に、一本の一番細い横線から書き出します。 その一本の線を書き出すときは、書き終えるまでのすべての線が頭に入っています。
 ドローンがあの時あれば、彼でも進め方程度は出来たでしょうが。 広大なエリアの木立まで、見えない沢や起伏まで、そのすべてが把握できないと、想像すらできません。
 顧問の以前の就業先に電話を掛けた。「京平付近の航空写真と等高線が入った森林図を用意してもらえないか」 私の従弟、京平はイワナ取りをした幼いころの遊び場所 ただ、一応内緒にしてくれと、拡大鏡も付けて送ってくれた。
それを、彼の奥さんに、「渡してほしい」とだけで届けている。          平成28年6月23日

 聞こえてはきていたが  岡庭一雄登場!
 またそれから数か月、過ぎていた。 吉川の社長がやることだから、大枠ができたら話が来ると思っていた。
ある日、石田さんから電話があった。期待していた通り、「吉川建設の大枠が出来たから、これから来れないか」という。石田さんからの電話に期待が窄んだ。 やはりというか なんというか (´・ω・`) これから は?
 会社に行ったら、そこには 案の定、〇〇と、岡庭一雄がいた。 石田さんの話は、第三セクターで村が主体で開発を行うという。(これは知っていた)その村の担当が、岡庭観光課長だという。(これも知っていた。郡上の車中や、そのメンバーで打ち合わせをする時々に、岡庭が、「コクサイの石田さんは、大した人だ。あの先見の明はすごい!」と、口にしていたから。時雄は全く正反対で、「あんな者に任せたら、やられちゃうぞ!なあ 章」と、私は心の中で笑っていた) そして、スキー場造成設計は〇〇が、ロープウェイ架構はメーカーが、スキー場のレストハウス設計は第三セクターに出資した竹村設計がやるんだという。
 特に、問題はなかった。その通りでよいと思った。そんな情報も全て知っていた。(黒柳村長から) 私は、園原が観光の目玉になることが嬉しかった。 ただ気に入らないのは、それを申し訳なさそうに言う石田さん。 ここでも、胡散臭さが気になった。 (能力の無い者が手掛けたから、使えない大きなコースが森林破壊の形で残っています)
 私は、「預けてある写真と森林等高線図を返していただけますか」と、〇〇に言ったら戸惑いを見せ、返せない という。(朝日新聞の記者と同じ) そこまで全て、“あなたたち” が決めているんなら必要ないでしょう、返してください。 「それじゃ返すよ!持っていくよ!」
 何日経っても持ってこない。仕方ないので家に行き、奥さんに、「あの、前に持ってきた写真と図面を、返してくれるとのことできましたが」「そうなの?わたしは何も聞いていないけど、迷惑をかけているんでしょう 悪いわね ごめんね」と、なんどもあやまってくれた。(奥さんに、こんなことを言うんじゃなかったと後悔した)                         平成28年6月24日
 その日のうちに、無言で事務所に置いていった。 それから何か月か過ぎていたが、ヘリを飛ばすと聞こえてきた

 石田さんは起業家である。こんな細かいことにかまっている暇はない
 光圀さんの会社に出向いた。飲み屋で同席した以来の事、こころよく迎えてくれた。
竹村さんが株主とのことは、石田さんとの関係を知っているから気にしないが、この設計、主な設計事務所が全員で参加出来るようにしていただきたい。「私のところへ、設計依頼がきています。鈴木設計だけでなく」
 良かったのかどうか ヘブンズ観光案内切符売り場、レストハウス上下、あまりあか抜けているとは思わないが

 オープンは平成8年8月8日    阿智郵便局長矢沢君は(同年生)8並びの記念シートを発売した。
 グリーンシーズンから始まったが、早々にロープウェイは停めて冬のシーズンに備えたのが良かったみたいで、何か所にも設けた駐車場では足りなくなるほどの入込だった。      平成28年6月27日

 石田さんは起業家   伊那谷道中へ
 ヘブンズの実質経営は吉川建設だった。市役所上がりを信金の紹介で支配人にしたが、酒癖が悪く事故を起こしてしまった。次の支配人は2代つづけて事務端を送った。(二人とも知り合いだった)
 オリックスに身売りをしたころもしばらくは同じ支配人であったが、オリックスは生え抜きで信用のある者を支配人にした。 オリックスは企業買収企業、そんなに長く経営することはない。早くも送り込んだ社長の後釜に支配人を充て、実績を上げていた社長にヘブンズ経営を任せたのである。
 オリックスが去ったあと、日本一の星空・雲上の日の出などで昼神温泉や阿智村全体の観光産業に大きな貢献をしている。石田さんや光圀さんの民間の力ではじまったヘブンズの成功、全村博物館のように、村の金を使いからかして汚れた始まりは成功なんてほど遠い、もう溶けかかっている。平成28年6月28日

 吉川建設を退職した〇〇
 その頃はすでに操とベッタリになっていた。 部落会に来ても操の前ふり役、園原のことは何にも知らない。どうして部落会に出てくるのか、この人はいつから来はじめたのか? 操がした地区公民館長の椅子は田中義幸さんだった。せめてもの罪滅ぼしとみている人は多く、まじめな義幸さんならと思う人がほとんどだった。  それが突然〇〇になった。

 彼の義父は園原郵便局長、渋谷勲を助け、地区の発展に大きく貢献した人である。中央道で恵那山トンネル付近の集落 横川渡は全戸移転しているが、郵便局だけは園原地籍(財産区地)に残した。すでに嫁いだ娘婿に局長は譲っていた。
 跡取りの娘は飯田に住んでおり移転と同時に移り住んだが、やはり、長年過ごした所を離れるのはつらい。 そんな時、可愛がられていた父に話があった。「典章よ、郵便局の在る財産区の土地の一部に小屋を建てさせてもらえないか。どうしても寂しい、冬は飯田で過ごすがまだ動けるうちは園原にいたい」そう言われれば無碍もなく、部落の了解を得たのである。 俺の山は戸沢にあるが、園原にも親父が買った山がある。なんとか生きている間は園原部落とお付き合いさせてもらえないか。みんなと同じようなお付き合いは出来ないので、帚木がある山と、月見堂の上の山は部落に寄付をする。(譲渡書が取り交わされている) 奥さんはそのことをその通りに聞いており、お世話になりましたと挨拶された。
 当人の住所だけを移したことは後でわかったが、過疎の園原部落にお付き合いをしていただけるなんてありがたいことである。 部落や地区の人も知らない地区公民館長人事、議員時代の専権事項だったらしい。
(地区の役全て、三人衆の専権事項)それがまた阿智村の公民館長になったのである。平成28年6月30日

 面白い話しの二つ目   〇〇公民館長の更迭
 熊谷村長と教育長がね、任期を1年残している〇〇に公民館長をやめるよう通達したらしいんだよ。そこでは了解したみたいだが家に帰って腹が立ったらしくてね、操に何とかしてくれと泣きついたんだって。でも彼にはそんな力はとっくにないから「俺でなくて時雄に頼め」と現役の園原にいる子飼いの村会議員を差し置く話を言ったそうだ。そこで時雄に頼む彼も彼だが、もともと常識は持ち合わせていないじゃん。 時雄が村長に怒鳴り込んだんだって、それで話が元に戻ったらしいんだけど、時雄が怒鳴り込んでなんとかなるなんて変だとは思わないかい。教育長はもともと本谷出身の党員、それも関係あるのかな? 〇〇は住所があるだけで税金を納めていない幽霊村民、のが理由だったみたいだけど、公民館の部員の話では、挨拶が出来ない!言ってることが分からない!なんでこんな人が館長になったの?で不平ばかりだったそうだよ。                                     平成28年7月1日       
 そこまでの話は、彼と時雄の体面を保つための表の話 実は、ホントの裏があるんだよ 

 ここにも登場! 岡庭一雄
 本人はもとより、飯田下伊那共産党幹部の共通の願い “岡庭の阿智村” が続くこと
任期末の最後の年、誰も、議会の共産党議員も彼に触れる人はいなかった。時雄でさえ離れていた。 平成28年7月4日
(時雄と岡庭の距離感は、十年前の裁判中に始まっている どちらもムショには入りたくないからである)

 時雄と岡庭の距離感はまたあとで
 本人はまだやりたい村長を この権力 人の金を使えることの満足感
智里農事組合の負債3億でも8億でも完全に隠してやった。というより、償還起債全体で溶かした、というほうが適しているかも。セクター鶴巻荘も民間委託の名のもとで子分たちに分けふった。清内路峠の茶屋の開店休業はどっちでもいい、清内路が、“欲しい”というから造ったんだ。新たな5カ年計画も俺の考えだ。あの時もうまくいった。
(あの時とは、山内村長の任期があるうちに、熊谷操と金田博充議員が「選挙で負けたのにいつまで座っているんだ。岡庭新村長の5カ年計画が出来ないではないか!」と怒鳴り込んだこと。さすがに山内村長は最後の議会で「至らぬ村長で村民に申し訳なかった。ただ、任期があるうちはせめて身の回りの整理はさせていただきたい」と涙を流した)
 この事を知っている職員はまだいるでしょう。 これだけのことをやられても山内さんは「私は知らない」と岡庭の袖の下を聞く刑事に言っているんだよ。              平成28年7月5日

 岡庭は大幹部
 やくざの親分でもここまでの統制は出来ないであろう
職員労働組合は社会党系が中心である。しかし、赤い村になった今、それは許さない。そのために党員を参事や課長にした。ここで独立宣言! 職員労働組合の脱会! 思い切ったことも平然とできた。それにも何の抵抗もない、俺の能力は、俺の頭は、話すこと、書き出すこと、阿智村の方向性 そのすべてが思い通りに通用する。新年の挨拶を広報に載せれば、市会議員まで褒めてくれる。ひょっとしたら、飯田市長も視野に入ってくる。
 実際にこのように考えていた   
 俺に反発するものが、たとえ行政の中にいても、他村の首長でも、面と向かってくるものは誰もいない。みんな同じように考えているからきれいごとは言えるはずがない。
 だが気になる奴がいる。それもたった一人、理屈だけで攻めてくる。俺や時雄を攻撃するなら手の打ちようがあるが、きれい事だけで押してくる。 彼奴には今までも太刀打ちできなかった。時雄に任せてあるが、あいつには全て見透かされている気がする。 まあ、いざとなれば面倒見過ぎたあいつの身内を使うか、まさか、身内までは売らないだろう。                平成28年7月6日

 それでも声は誰からもかからなかった
 それもその筈、悪いことをした奴の末路は誰の目にも見えるからだ。 “もしかして” の予感がしていたから一年前に手を打っておいた。それは、辞めたときの俺の居場所。
 住所だけの幽霊住民、無理な状況の〇〇地区公民館長、それも操君の言うことを聞いてあげたんだから、それを取りあえず公民館長にしておけばよい。
 あの時それとなく言っておけばよかった
 おい教育長!と電話を入れ、ぼつぼつ座れるようにせよと指示をした。飼いならされているワンちゃんは官製(慣性)の法則、なれたもんだ。どう言って熊谷村長を納得させたか聞きたいもんだが想像は出来る。やはり、幽霊村民だ、これであれば今の状態がおかしい!となる。議会も職員も、“評判の悪さ”で肩を持つのもいないだろう。                        平成28年7月7日

 来月には公民館長
 夏祭りも花桃も、何でもかんでも委員長や会長になっていた。これは、ずうっとやれる腰掛け、椅子に座るには公民館長しかない、金にもなる。税金を払っていない幽霊村民にいつまでも座らせるわけにはいかん。
 しまった! 時雄の小僧が、たてつくとは思わなんだ。
 
章の裁判で一番恐れていたこと、それは刑事事件で告訴されること! 民事は犯罪を確定するための証拠作りでやったことだとは、章の叔父や阿智川の会長から聞くまでは分からかったが、彼奴は恐ろしかった。
俺が警察に捕まるのを覚悟したとき、時雄は俺を見放した。「村長はお前じゃないか、お前が章を騙したんだから捕まるのはお前だ!俺は何もやってないぞ」あの言葉は忘れてないぞ! 水上も俺に愛想をつかして離れていったが、職員の身でありながら社長になるなんて、彼奴の頭が変になってやったことじゃないか。気が変になった!って時雄も言いふらしていたじゃないか。      平成28年7月8日

 時雄君の勝ち!
 熊谷村長は知らないこと。教育長が、それベシの言い方で〇〇公民館長の不備を指摘すれば、村長もそうですか、と聞くだけである。それでも次の方の手配に心配することは当然として思うからして、教育長は一気にまくし立てなければならない。 村長は、そんなものなんだ (´・ω・`) と言い負かされるより仕方なかったのだと思う。
 それが時雄君の、“怒鳴り込み” で、白紙に戻ったばかりか、熊谷村長の、“失態” とさせて、『俺を後援会に顔を出すな』と、言われた、“仕返し”をしたのである。これは、それを言った村長の地元、原前議員に対しての当てつけでもあった。 
(時雄君は幼少のころから、学校であった気に入らぬことを帰ってから竹の棒を持って家に押しかけ、頭を叩き仕返しをする! 小僧であったことは農間部落の同年代から、ことあることに聞いた昔の話です)                                     平成28年7月12日

 情けない話
 〇〇公民館長は村長同席での教育長の言葉を受けてその場では了承したという。でもって教育長は、岡庭一雄にすぐ電話を入れたのです。「ご主人さま、明日から座れますよ公民館長の椅子に、」ワンワンと言ったのではないか?と
 家に帰って腹が立って仕方なかったという、それで翌日熊谷操氏の家に行き、「俺ではだめだ、義文でも無理だ、時雄しかいない。あとはお前が時雄のところへ行けるかどうか、お前次第だ」?、何とも意味深な言葉を言ったようだ。この意味信の言葉、「お前次第だ」これは、地元の人ならみんな知っていることです。あまりにも下世話なので控えるが、彼は時雄君の家を訪れたのです。 平成28年7月13日

 恥も外聞も持ち合わせていない人
 もともとそんなものは持ち合わせていない、だって遠く離れた県生まれだもん。熊谷操氏が議員を辞めれば、即三下り半も告げずに阿智川会長にすり寄りよって、天竜村で小遣い稼ぎするくらいだもん。時雄君のところへ行くことは、奥さんだけには内緒にしてね それだけが唯一のうしろめたさ。
「うるさい!黙れ!でたらめ言うんじゃねえ!」こう言って恫喝すれば、章なんてどうってことはない。義父の約束なんか糞くらえ! 月見堂上の寄付した山は、婿養子の俺の名義になった唯一の山だ。死んだって放すもんか!
奥さんは、「お爺ちゃからちゃんと話を聞いているから、名義を変えてもらうのはいつでもいいよ」と、地縁団体、『園原部落会』に名変することに快く同意してくれたが、操氏の「そんなことをしなくてもいい。章文の言うことなんて聞く必要はない」と、息のかかった部落の若者にちゃんと話しておくからね!と、きたもんだ。                           平成28年7月14日

 竹馬の友
 〇〇氏は熊谷操氏に利用されてきただけ
ヘブンズをそれなりにまとめてきた!との自負があり、工事の終了に合わせ退職後の身の振り方にヘブンズを期待したところがあったのではないか。そんな気があることは、地元から唯一阿智総合開発株式会社に正規採用された竹馬の友から聞いていた。(その人の下では働きたくない!と)
操氏しか話を聞いてもらえなかったんだと思います。石田の社長や時雄君や母方叔父まで相手にしていなかったから。
 退職後を考えるのは誰でも同じようにあります。また、園原の人たちのなかでも、数々の矛盾の中で中途退職しなければならなかった人もいます。あまりに理不尽な事があっても言い出せなく我慢をしているのです。
自分に都合の良いように、自分にお金が入るように、そんな議員。そんな議員の手先になって、あまつさえその議員の力でなった役職が仲間と信じていた岡庭さんに奪われても、俺がした役職に村長でもないお前が指図するな!との助舟さえ出せないのだから、いくら何でももう気づかなきゃ!ねえ
 変わってしまった竹馬の友
 幼稚園から高校まで一緒の一つ下の幼なじみ。小学校から、「〇〇君行くよ」行きも帰りも、中学校はスクールバス、高校は下宿こそ違ったが、同級生も〇〇!とみんなで親しく話した、悩みも好きな女の子の事も何もかも話した。一緒に寝たこともある、遊ぶ時はいつも一緒、そんな彼から、父が議員になった後の部落会で、「バカヤロウーえらい気になるな!」と、信じられないような言葉を投げかけられた。 薄々聞こえては来ていた。「勝手に消防を辞めやがって、そのため俺は3年も分団長をやる羽目になった。消防も満足に出来なかったやつが、あれこれ地区に口を出すな!」
不思議な感じだった。が、時雄君の丸め込みだな、とは気づいていた。時雄君の分団長が終わったときには、前にもまして彼の周りに誰もいなくなっていた。やはり、それなりの訳があって同年代の人たちも同級生も寄り付かなくなっていたのです。
 時雄君が私を敵対視し始めたころ、そこにきっとこう言って近づいたのだと思います。『阿智総合開発株式会社の正規社員、俺が骨を折って紹介したんだぞ』(想像です)
 その正規社員は黒柳村長の専権事項!でした。「教育長、地元で京平山に詳しい人を推薦してください」 一人おります。吉川建設の土木からいまは他の土建会社に勤めていますが、技術力もあると思います。またお隣で人間的にも保証します。それが無理をさせたことだとは考えにくい。平成28年7月15日

 園原部落で誰か必要
 母方叔父と時雄君、戸沢・中央・農間の各部落は押さえた。園原は熊谷操が牛耳っている、操に影響されてない、そして章文に盾突くものが誰か必要だ。
叔父さんがよく言っていた。「ダメよ章文、部落でものをいう時には誰か同調してくれる者をつくっておかなきゃ」
時雄君はこういうことだけは長けていたみたい。必要でない園原史跡研究会を立ち上げ、その委員長に彼を充て、その報告書をまとめ上げさせ彼の実績として地区に認めさせる。そうやって抱き込んだのです。元々素直な友は、二人の地区での力はわかっていた。その二人が、『お前が必要だ』と言えば、その気になってしまう、その上、俺にはお前が必要だ、本気でそう思っているので義兄弟になってくれ、と、水盃をくみ交わしたそうだ。
だから私が時雄君を悪く言えば、大声で罵倒するようになっていたのです。「あれは洗脳されている!」との口も聞こえてきた。でもそんなことは絶対にない。騙されていたことに気づけば、きっともとの友に、あの笑顔に戻ってくれると信じている。  これが辛い話です。     平成28年7月17日

 議長の席
 議員改選選挙の初日、投票数の一番多かった人が仮の議長になり議長選出を行うという。
阿智村の議長、どのような人が議長になってきたか。混乱の時期から紹介します。
 黒柳村長最後の二年  熊谷操議長
黒柳村長の話 「教育長、就任以来多くの施設を建設してきたが、阿智第三小学校が一番良かった、自慢の施設だ」父はうれしかったようでその日のうちに電話をくれた。 
 この話に近い話を熊谷操氏が議長に選出された初議会の冒頭で言ったらしい。全国優良教育施設として全国で二学校だけ表彰された阿智第三小学校を紹介する形で。村長は父のSBCニュース報道の裏側を知っていた。
 阿智第三小学校の竣工式が新体育館で行われたが、この時すでに父は辞職していた。それから後にこの体育館で学校行事が開催された。その日はあいにくの雨、ステージ横から雨漏りがしたという。それも固まった雨、どどどと落ちてしばらくしてポツンポツンと、造ったばかりの体育館で雨漏りすることは信じられないこと。工事中でも検査でも雨漏りは指摘されないし報告もなかった。が、しかし、神稲建設の代人は知っていたらしい。ステージ上の段差屋根の水切り取り付けに不備があった事、竣工前に雨漏りし、すぐに手直ししたことを隠していたのだ。               平成28年7月19日

 犯人は校長先生
「議会がその不始末を正すので出てこい!と言っている」そう電話がきたのは前日、宮下設計の担当松田君からだ。
何のことかわからない。聞き直したら、体育館ステージから雨漏りがしている。その原因と対策を議会の中で説明するように言われた。という。もっと分からなくなったが、すぐ気が付いた。どちらにしても熊谷操議長が主導していること。
電話を切るとすぐに神稲建設福沢部長に電話を入れた。電話口が重ったるい、歯切れが悪かったがもうすべて掌握した。
魔女狩り(章設計)である。福沢さんの言うことは、『教育委員会の佐々木事務局長から一週間前に電話があった。雨漏りが指摘された。設計ミス!との話。』
『三日後に同様の電話があり、宮下設計には前の日に伝えろ、宮下から章設計に言えばよい。』工事中の雨漏りの件、どうして報告しなかったのですか?『不良個所は分かったので手直しをしたから、工事中であり報告する必要がないと判断した。』で、あれば雨漏りはしなかったのでは?『実は、当社も不振に思って電話をいただいてから代人が確認しました。その確認する前に屋根に上りますと校長先生に了解を取ったら。』『実は、私が現場の休みの時に心配なので屋根に上ったんです。その時、水切り鉄板を踏んづけてしまい大きな凹みが出来てしまった。その時は凹みだから大丈夫と思っていましたが・・その事は今回佐々木さんには伝えました。』 代人さんが屋根に上ったら、その通り大きな凹みが有るのを確認したそうだ。そしてその大きな凹みは既に修復した。という。    平成28年7月20日

 単純な人たち
 ここまで来れば笑い話でしょう、でもそれに議員さんたち全員が賛同して、“魔女狩り” 裁判をしたのですよ!
 筋書きはこんな風
『議長!設計ミスで行きましょう。大丈夫です、三浦教育委員長には一言も言わせません。高坂耘平教育長も、その名のとおり、“うんペイ”だから』
『そうだな、では俺は息のかかった子分に言っておくか、章を攻撃する言葉を間違えないように。とにかく神稲建設のせいではなく、神稲建設はきちんと工事をして雨漏りもきちんと直したと。設計事務所は設計ミスをしたのに修理費も出さないのはどういうことか』 こんなもんかな?  平成28年7月21日

 いや、まだ駄目です  強い強い佐々木幸仁事務局長
 「村長も表彰を喜んでいる。これをきっかけに熊谷教育長の復活が言われる通りあるかもしれません。ここで徹底的に章を叩いておかないと。優良教育施設の申請は俺がやったのに、宮下設計がトロいことをしているから章の名前ばかりが先行したんだ。」「だから宮下設計には社長が来ないように連絡した。それに業者関係者にも早めに来いと連絡して章を後に来させ一番前に座らせる。」
 何も知らない章設計は、それでも15分早く行ってみた。
それでも座れる丸椅子は一番前に一個しかなかった。宮下設計の松田君に少し詳しく話を聞くつもりで早めに行ったのに、私の陰に隠れるように座る松田君にふり返様に耳打ちしたが、「何も知りません」と、折りたたみ椅子に座ったまま。神稲建設の福沢部長は視線も合わさない。 ふう~ 根回しが行き届いていますねえ                               平成28年7月24日

 仕切りはやはり佐々木幸仁事務局長
 議会議員全員を熊谷操議長の裏に控えさせ、黒柳村長・山内助役・岡庭忠臣総務課長・高坂耘平教育長が裁判官席のように座りました。 私たち業者は議会議員に対面して、当然私一人が被告席の丸椅子に座っていました。
一通り佐々木が経過を述べた。校長先生の事はおくびにも出さず、さすがうまく言えました。
 そこで口火を切った二人の子分
 一人目 昼神温泉代表議員田中直志(時雄君が昼神温泉代表で出たかった。だから時雄君の言うことだけ聞いた人)
吠えたねえ 何にも知らないから暗記した作文通り、だから大きな声が出ましたよ。 はい、お利口さん
(この人昔からのお付き合いの有る方、旅館やすらぎ、も小平設計。だから私の目を見ない)
私の性格、理不尽な事には臆さない。そんな雰囲気を察したのかどうか、佐々木は直ぐに神稲建設に説明を求めた。
福沢部長(自分の立場ばかりの人、こういう人ばかり当時の神稲建設)       平成28年7月25日

 福沢部長の返事
 なぜ雨漏りしたかは分からない、図面通り施工している。 もごもごと答えたからか、それも打ち合わせだったのか。
直志、待ってましたと言わんばかりに、「設計図はどうなんだ、図面通り施工しているのに雨が漏るなんて設計ミスではないか!設計事務所は責任がないのか!」
(どうも張り切りすぎちゃったみたい( ´艸`) ちょっと早すぎたね。順番に言えば分かりやすくディベート出来たのにね、章設計を追及できたのにね)  私が答えを用意してない!とでも思ったの?

 社会の形 “建築家気取り” でも書き記したが、設計図で雨は漏らないよ! 雨が漏るのは全て施工者の責任となっています。
設計事務所でも設計過誤には保険を掛けることがあります。その対象に雨漏りはありますが、構造的な欠陥において発生した雨漏りについてだけその適用が成されることになっています。 平成28年7月26日

 黒柳村長は最初から目を閉じていた
 雨漏りが設計ミス? 神稲建設がこんなことを言えるわけがない!責任問題になってしまうから福沢部長さんは口ごもったのです。 それは天下の神稲建設でもビビるでしょう、村理事者と議会が全員で章設計を詰問するんだもん。それも、“出来レース” で。 福沢さんではどちらに転んでも、役不足の感は否めなかったね。
 せっかく追い込んでいただいたからこちらも言いきっちゃった。
私たちは(宮下設計の松田君も一応居たから)常に100%を求めて取り組んでいます。事故が起きたとき、その起因の多くは現場管理にある場合があり、そのような結果にならないために設計事務所は現場監理を行っています。図面通りな結果が出ないときは、やり直しを指示することもあります。今回の雨漏りの結果や原因について調査して明らかにすることは困難です。ついては、雨漏りがしたという水切り役物をそのままに、新たに水切り役物を設置してその対処に当たりたいと思います。(ここまで言い切ったとき、黒柳村長の口元が少し綻んだような気がした)            平成28年7月27日

 書いてみると分かりやすいでしょう
 熊谷操議長や田中直志議員に言っても理解できなかったと思います。だって、議員のみなさんと福沢部長さんが、アタフタしちゃったもん。そして佐々木幸仁策士もね。
 ここで二番選手  伍和の熊谷議員(南信土建勤務)息子さんは私と同年で阿智村役場勤務
「なんだ!設計事務所は責任取らんのか!そうやって全部業者に押し付けるのか!」 これもまたいきなりな?
打ち合わせてあった追及の作文が飛んでしまったみたい。まあ、なんてトンチンカンな発言でしょうか。 私のけげんな顔に気づいたのか続いてこう言った。「設計事務所は金を出さんのか、悪いことをしたのに業者に出させるのか!」                        平成28年7月28日

 さすがに私も切れかかった
 その時 大きな声が響いた! (ん?なんか聞いたような?読んだような気がするでしょう。その通りですよ)
「やめろ! よせ!」 そう、熊谷操議長の大声がまた出ました。 そして シーン となった。 発言した熊谷議員はバツ悪そうにもごもご言ってる言葉だけが耳についた。 (佐々木幸仁君も、誰かの陰で小さくなっていたなあ)
 後日熊谷操氏は私にこう言った。「あの時お前の顔色が変わった。だからあんな事を言ってはダメだと、あいつはそういう事が分からん奴だから。」 そう、俺はあんなことまで言われて黙っているタイプじゃない。これからやっつけちゃおう!と思ってたのに止めちゃうんだもん。( ´艸`) でも本当はそうではない。操氏は見ていたのだ、私が発言した後の黒柳村長の顔を、その微笑んだ顔を、見逃さなかったんですよ。 黒柳村長が、こんなレベルの議員がやることを分からないとでも思うのかね。 (これも書いたような・・)                          平成28年7月29日

 やることがなくなっちゃった
 場が白けたから何もやることがなくなった。10分も経ってない、こんなに大勢集まったから体育館でも見ましょうか。 どなたの提案か忘れてしまったが、雨漏りしたステージも見ない、ただ中庭側を歩いただけ。黒柳村長は見えない、山内助役と岡庭忠臣総務課長が、「浪合の学校なんて雨漏りだらけ、今はもう止まっている体育館の雨漏りくらいで章さんにはあまり気にしないで。」
 後日宮下設計さんの社長さんが言ってた。
 あの人のことだからホントかどうかは疑わしいが、「神建の福沢部長が言ってたけど、あれは章設計が悪い、あんな生意気な言い方をするから、まとまるものもまとまらないんだ!」 建設業者彼らの考え方、社の上の人としてみても、理解出来ない。何が?まとまらないのか? でもこれが世間一般の考え方、だとは分かる。                             平成28年7月30日

 2番目のコーナー 阿智村岡庭一雄前村長の不正 からこちらに移動しました。 
 『 コミュニティーセンターの設計コンペ の始まり 』

 コミュニティーセンターの設計コンペンの始まり
 あの騒動は何だったのか?、何一つ変わったものはない。用途も、規模も、立つ場所も! 唯一変わったのは、一部3階が2階建てになっていたことだけである。
ちょうどそのころ庁舎横の阿智モーター社屋を設計していた。荒井社長さんは(議員になったので社長は息子)旧知の間柄、父が団長の時の副団長で、当時は毎晩のように顔を見ていた。(^^)
なので、コミュニティーセンターの議会内部の情報は、私だけには筒抜けになっていたのである。裏も、表も、そのまた裏も、全部みいんな知っていたのです。 (これも面白い話、来週には話しきれるかな)                                    平成28年7月15日

 コミュニティーセンター設計コンペ
 一応設計事務所を決めるためにコンペ(競技設計)はやるつもりでいたらしい。鈴木設計に図(か)かせた基本計画で鈴木設計に決めるつもりでいたものが、思わぬハプニングで筋書きがくるった。一応ちゃんとしたコンペにしなければ山内村長が、“本当のことを言い出しかねない” そこで岡庭君、もらったを返せばまだ、“証拠”は残らなかったが、何度もいただいて、“マヒ”していたらしい。議長も、助役も、あいつだって貰っているではないか。(『この人ホントにこういう人だよ!』その当時の、岡庭君より上の人に聞いてみてごらんなさい)(時雄君は全く逆!、これをやったら足がつく!絶対に受け取らなかった。その代りに幾らでも、“公金”が、着服できたからね)    平成28年7月19日

 さあ!設計コンペが始まりましたよ!
 表も裏も知っている章設計がコンペ作品を作成すれば、何も、どこからも、“ケチ” をつけようがない。山内村長にしても彼らの汚いやり口での事に業を煮やしている。 
 章設計に決まっちゃうよ! 
 最初からやるつもりがない仕事、問題を定義する!ために、裏の事が表に出やすいようにまとめたプラン。
このコンペ! 設計者の説明会が開かれていない! いろいろあったから、案図面だけで決めようとしたらしい。このことも岡庭君の提案。それが裏目に出たらしい。 そこで岡庭君と熊谷議長のとった行動は、「まだ慌てなくて良いのでは、時間をかけて決めましょう」         平成28年7月20日

 そのすぐ後に彼等に朗報が、荒井議員からもたらされた
 荒井議員は山内村長の地元、当然自身の選挙の時にもお世話になった。だから、村長に出るときに、「ほねを折った!」と言ってはいたが。もうその時点では熊谷操議長の門下生になっていた。
でも、私とは身内みたいな関係、口癖のように言うのは親しい他のだけかがいるときに、「六分団の夜警見回り視察で顔出すと全員が整列して最敬礼で迎えるのが当たり前の団長、なのにお前は、『なんだ、荒井さんじゃない!』、俺は思わずズッコケたよ( ´艸`)」
 荒井自動車(阿智モーター)の社屋の設計、荒井さんと二人で丸井亭に行った。まあ、偶然の恐ろしさ、熊谷操議長と鉢合わせ。そのとき悟ったね、二人の関係。           平成28年7月21日

 二度目の鉢合わせ
 荒井さんは当然知っていた。章設計の案が一番良いということを。では、なぜ良いと思われたのか。
 簡単な事  コミュニティーセンターは名ばかり。
 元々攻撃材料で始めた議場の改築、熊谷操議長は村長になれなかったとの気持ちが強い。いまいち評判の助役が村長になった、黒柳村長さえ頷いてくれたならば成れたのに。
(時雄氏は操村長を妨害した。それはそうでしょ、岡庭君がなれなくなっちゃうから、操氏はそれに気づいていない)
役場の中で、『いじめ!』がありました。山内さんを大勢の子供が。
 現状の議場改修でお願いします。なんて言うことなんか聞いちゃあいない!阿智村の議長なんだから力がある。近隣の町村に知れ渡ったってそれはむしろ誇らしく思っていたようだ。
 で、あるからして、議場でなくなったコミュニティーセンターなんて、何の意味もなくなっちゃった!のです。
それは、山内村長にとっても同じこと、それでもコミュニティーセンターは建設しなければならなくなっちゃった!
目的がなくなってしまったのです。それでもって、間違っても議場に見間違えされないよう修正したから、鈴木設計と予定通り進めていた水上宗光総務課長はまとめようがなく、グチャグチャになっていたのである。  平成28年7月22日

 章設計の案
 水上の手の内は知り尽くしている。20からの知り合いだ、彼は二つ年上、総務課に従事していて結構数字に強い、頭の回転も速いから行政業務にも向いていた。 ただ、残念なことは左寄り、彼の実力を認めているライバルも、その事があれば彼より上になれる!と思っていただろう。
 それでも造らなくてはならなかったコミュニティーセンター。
県から大幅な変更は出来ないとされ、規模縮小も予算の減少も出来ない。であれば簡単な事、公民館ホールと庁舎の連絡空間施設とすれば良いことである。 議場に見せないために2階建てに制限されたが、そんなことも関係ない。利用度を高めれば良いこと、公民館は3階建てである、それに接続できるよう3階を連絡通路としたのです。エレベーターを設置して3階までのバリアフリーを提案した。この事は、軽減できない予算を本来の目的に合わせた使い方になった。
 そして極めつけは1階の連絡通路、現状保健センターからコミュニティーセンターを通り、公民館までつながっている連絡通路は私の提案です。
(この提案は公民館の耐震改修設計コンペでもしておりますが、ここでも章設計に決めたくない岡庭と時雄君の策略の中で指示された、当時の教育長が知っています。公民館耐震改修コンペでは伊藤下條村長紹介の都内の建築家気取りが当選するようになっていました)          平成28年8月2日

 プロポーザルコンペ
 プロポーザルとは、基本的な設問に対して多角的な考え方を説明図面化する提案型コンペをいいます。当時はまだ一般的な競技設計(設計コンペ)の手法が主でした。
 阿智村のコミュニティーセンターの設問は、1階が事務室と便所・2階がホール、公民館にどのように接続するか、既存浄化槽の利用をせよ。 でした。(これは水上の作戦、鈴木設計には詳細な計画が有りました)
だから私は、プロポーザルとして提案型設計案を提出したのです。         平成28年8月3日

 荒井議員の朗報
 熊谷操議員と二度目のバッタリ! それはまさに設計業者を決定する委員会が開かれる日の昼近く、阿智モーター事務室で荒井さんと打ち合わせしていた。 「お世話になります。今日社屋のことで打ち合わせをお願いしたいんですが?」と、朝電話を入れた。「ああいいよ、午後から会議が有るから午前中にしてよ。」それでは11時ころ伺います。
 それは作戦でした。今日選定委員会が開かれることは知っていた。そして当社の案が、いい線に来ていることは荒井さん自身からも聞いていた。 でも章設計には決まらない! と言うことも知っていた。だって議長が熊谷操なんだもん。
 荒井さんは父との交流が一番強かった人、だから私の前では、「操ではどうしようもない。」と議長不適任の言葉を何度も口にしていた。操議長がどうしようもなくても懇意にしていたことは既成の事実。 だから間に入って困っていたのである。その日も鈴木設計の案に決める下打ち合わせの確認に来たのである。                                 平成28年8月4日

 荒井議員から先に言われた
 お前の案は評判が良い、だけど村は2階建てとしている。ああいう事があったからなあ、気を遣うよ。
そうですか、うちは仕事が欲しい訳ではないですよ。コミュニティーセンターとして造るのなら無駄な施設とならない様にプロポーザルとして提案しているだけですよ。 「ん、なんだそれは?」 説明してあげた。「そうか、それは良いことを聞いた。」
 それでまた大揉めになったみたい
住民課長から突然に電話が来た。 まさかうちに決まったのでは?         平成28年8月5日

 井原住民課長
 淡々と話された。「これからちょっと話がありますので伺いたいが居られますか?」 はい、いますが、どのようなことでしょうか?私の方から伺いますが。 「いや、電話ではなんだから兎に角これからすぐ向かいますので。」
 ごめん下さい
 と、住民課長と山内村長が顔を出した。その後に高坂助役・水上宗光まで! 何事か!? 構えてしまったが、難しい話だとは感づいた、それは皆さん深く腰掛けずに中腰だったから。 井原課長が口を開いたが、ぐずぐずで聞き取れない。山内村長が言うには、『村は章設計の案が良いとしていたが、選定委員会でもそれほどどこが良いとは、その~』歯切れが悪い、『競技設計として始めたのでプロポーザルではダメ!だという話になった。そんなことは良いのではないかとも思うのだが、なにしろうるさい議員がいて手が付かない、「おかしいじゃないか!そんな案を受け取ること自体が!」なので、章設計さんには悪いけど降りてくれないか・・』
 おかしな話は山内村長である。誰が見ても聞いてもね (・o・)          平成28年8月6日

 村長がこれではね
 がっかりするでしょう、業者でなくても。村長なんだから、いくら親しいお付き合いをしていても私は業者ですよ!
こちら側が、清く正しくお付き合いをしなければ、ああいう輩を相手にしているんだから。なんて、気を使ってきていても、ここまで言う成りになる!って、思っているのかね? だから井原住民課長は口ごもるんだし、助役と水上の義兄弟は図に乗るんだよ。
 ここで一番ホっとしたのは。
言うまでもなく荒井議員。私との付き合いで章設計を批判することなく、また、熊谷操議長の言いなりになったと弁解する必要もなく、ただ朗報とされただけ。             平成28年8月8日

 宮下設計になった
 選定委員会で一番良いとされたのは宮下設計でした。(まあ、そうにでもして落ち着かせないと、何だろうがね)
出来上がったコミュニティーセンターは3階建て、(‘;’)  EVも付いています。(・。・;
「宮下設計に決まりました。」と話してくれたのが水上宗光。そのついでに、「EVはバリやフリーとして今の時代必要なので・・」と、暗に了解させるよう。
当時の課長クラスでまともな人は、井原課長しかいなかった! との話になりました。
 そして各棟の連絡通路は、公民館耐震工事で日の目を見ることになりました。(こんな事ばかり) でも、あまりに無計画で進められた各工事のため建築基準法に抵触してしまい、『 屋根のない通路 』を、作る羽目になりました。 でもこれは、設計士なら事前に分かること。完成直前、地方事務所建築課の完了検査で指摘され、屋根のない通路になりましたが、誰もこれを問題とせず、設計事務所に責任もとらせていない。 章設計は、設計図面の中の雨漏りでさえ責任を取れ!と、議会議員全員から追及されたのにね。                                平成28年8月10日

 この時におかしいのではないかと声を上げた人
 それが阿智工務店の社長(高校の同級生)、原建設と企業体を組んで公民館の耐震工事を請け負っていた。その社長が、屋根のない通路、を指摘したのだ。
目的の通路に屋根が設けられない! これこそ設計ミス!ではないか。彼は私より正義感が強かった。岡庭村長に指摘した!と言っていた。だけどやはり無視された。と嘆いていた。 しかしその彼はもういない                                    平成28年8月12日

 (建築家気取り なんてその程度です。屋根のある通路にするには保健センターのそれに当たる全ての開口部(窓玄関戸等)を防火設備(防火戸)としなければならず、それべしの費用がかかります)

 話はさかのぼるが
 昼神温泉が阿智村にとって最大の観光産業となったとき、岡庭一雄やその仲間たちは、『 黒柳村長の消極性 』に批判の声を出し始めた。それは水上宗光から直接聞いた話で気が付いた。「村長の議会答弁が、『 今年度はわずかだが黒字となりました』、村が黒字を出してどうする!そんな消極的な行政姿勢は賛成できない。」
 これが堂々とした共産党の村政批判です。
職員係長でのこの堂々とした村長批判!大したものです。「そうですね、経済団体ではないから黒字を目的にするのは、確かにそうですね。」と、相槌で答えたが、攻撃材料とする彼等の目的は感ずいた。    平成28年8月14日

 村は経済団体ではない
 確かにそうですが、健全財政に努める事は村が最も求められるもの! 共産党にはそういう考えはない。幹部クラスがブルジョワで、その下は全て平等。その平等の名のもとがイデオロギー だから、彼等にとって村は必要ないもの、赤字・黒字なんて関係ない、必要なところに必要な予算を付けてもらえればよいのだ。
 その必要なところは彼等党員が従事している事業や職場!
そういう考えで岡庭一雄は昼神温泉に村の予算を付けることを重点としてきた。
観光客が増え続けている昼神温泉に、観光産業にお金を付ける!とすれば聞こえが良い。でもその裏で、彼等に関係するところに重点的に金を回してきたことも事実である。      平成28年8月15日           

 智里東農事組合
 今存在していますか? 岡庭一雄様が職員時代に立ちあげさせたこの事業団体。多くの村のお金が費やされました。 水上宗光の地元、昼神温泉は智里東農事組合が仕切っているのだと言って何事にも優先させ、蔭で参加していたのではないかな例によって奥さんの名前で。
 対岸に使いもしない屋外ステージを設置し、『もうもう館』などと称して加工直販施設を無計画に数億の補助金で作ってあげて、至れり尽くせりしてあげて、それこそ清内路の施設とおんなじで、完成即 “ 閉鎖 ”
{水上宗光が言うには、『国からえらい役人様が来て、水上の地域発展の考え方に同調してくれた。それで何でも好きな施設を造って良いと、県を通り越し直接予算をくれた』俺の実績!『もうもう館』} 
 その俺の実績!で、数億円かかったモウモウ館の地元負担が何も無い!と豪語していたが、村も負担が何もなかったのかな?償還起債でもなく国が寄付してくれたのかな?
 智里東農事組合、施設や製造機器設備に一銭も投資してない『もうもう館』、どうして経営破綻したのでしょうか? 
村が投下した多額の資金は何も返済されないまま溶かしてしまったのではないのかな!?
田中治彦議員が突き止めていた負債額は3億円とも8億円とも、それはどうされたのでしょうか? 岡庭一雄様
 村民の皆様 このお金 村が背負ってしまったのではないですか? この事、明らかにしなければならない事!ではないでしょうか。                        平成28年8月16日 

 田中治彦議員を下す謀略
 熊谷時雄氏は『村長になりたい!』でした。そのために『村会議員に成る!』は通過点。 彼の間違いは、『私にその気が有る!』と、踏んだことだと思います。
 私が彼になびかないと分かったとき、彼は私を攻撃することで、私の評判を落とすことで身の振り方を作り出してきました。そして、いつかは私が表に出てくる!そんな気持ちが強かったから、攻撃の手を緩めることが出来なかった。 私にそんな気が無い!って事が分かっても、方向転換が出来る状態では既になかった。
 田中治彦氏が本谷財産区の代表議員として、本谷(戸沢・中央・農間)の人たちから推薦された時、彼は一人反対をして、その意思を叔父に伝えています。叔父は、「よわったもんだ。そんなに成りたいのかなあ。」と気にしていました。
 時雄氏はなりたいより、成らなければならない! でした。           平成28年8月17日

 時雄氏の方向転換
 本谷財産区として村会議員に出る事が出来なくなった。と考えた時雄君は、熊谷操氏の後継に成ろうと方向転換をしました。 熊谷操氏と私の叔父は『犬猿の仲』でした。時雄君はその事を一番よく知っていました。だから、ずうっと悪口を言って、(ホントのことだから悪口ではないが)操氏を批判していました。
 渋谷勲の後継者は父でした。本人にその気が無くても周りではそういうものでした。園原インターで地区を一つにまとめ、実現させた祖父の実績・実行力には、誰一人となく認めるものでした。
 そこで焦っていたのでしょう、操氏はどうしたら渋谷勲の後継に成れるか!思案していたものと思います。
 その焦りとは。
インター設置要望で地区民全員が頑張っているときに、渋谷勲の身内と操氏が道路公団に、『インターでなくともバスストップの設置をお願いします。それと西地区までの県道拡幅をお願いします』と抜け駆けで陳情したことです。
 そのことは、道路公団からも地区一体の要望陳情に疑問を持たれることになり、渋谷勲の信用が大きく傷つくものとなりました。 祖父の怒ったこと!それは凄い剣幕で、それこそ裏の言い伝えになったほど。     平成28年8月18日

 後継者でない
 その日、自宅に多くの部落の人たちが来ていた。そこで父に、『村会に出てほしい、渋谷勲の跡を継ぐ者は典章さんしかいない!』 父は思案していた。それは、その事で地区の代表を数人決めて父に要請する!という話が事前に来ていたからだ。 それは同じように熊谷操氏にも聞こえていた。操氏は渋谷勲の後継には絶対に成れない。そこで思案したのだと思う。筋書きを立てることに
 実際のこと
 多くの人が自宅に来て、立候補を要請された。 父の気持ちもまだそこまでいっていなかったことも事実。
話の途中で電話が鳴った。 それは部落の中で熊谷操氏の唯一の子分に掛かってきた電話。ほんと、後になってみればわざとらしい話しぶり、『やいみんな、操が手を挙げた! 俺が出るって堂々と手を挙げた! みんなに話を聞いてほしいそうだ、話も聞いてみなきゃならんぞ!』と、そそくさと出て行ってしまった。          平成28年8月19日

 二人してやってきた
 父はその事、さして気にしていなかった。そんな気持ちを考えるまでいってなかったし、ふざけた話!なんて、来てくれた人たちのことも何も気にしていなかった。 私の方が、なに?このバカげた茶番は?!と思ったくらいでした。
 年上の子分を伴って操氏が訪れた。
「二期で、二期だけで良いので俺にやらせてもらえないか」と二人して深々と頭を下げたという。
この話、同席していた父の弟から聞きました。
 でも渋谷勲は今で言う、キレた
父が言われたという。「お前はそれで良いのか!お前が俺の後継者ならだれも文句を言うやつはおらん!」「あんな者に議員が務まるか!地区をまとめられる分けがないじゃないか!」 平成28年8月20日

 二期が過ぎても辞めなかった
 それは父が教育長になったからであり、また、三期務めなければ恩給の対象に成り得ない!(これは当時の議員では当たり前の事)ことが有ったからで他ならないのである。
 時雄君は考えた。
本谷の田中議員はまだ一期目、同じように三期はやるだろう。だが、熊谷操議員は三期目で、それも二期だけは!を越している。であれば、操にくっ付いていて損なことはない! でも、操に接近すると叔父が感づく、そこは悟られないようにしないと・・ (それはとっくに叔父に分かっていました。)                 平成28年8月22日

 青天の霹靂
 まさしく時雄君にはそうであったに違いない!
熊谷操議員がまた出るという、これは話が違うではないか! 時雄君は焦った。(時雄君の言動は叔父の目にも異様に映ったと言う)
 そこでもってまた、輪を掛けるような事が起こった。
それは父の村会議員立候補。 野にいた父はそんな気持ちはさらさらなかった。黒柳村長の後を引き継いだ山内村長の評判には気にしていたが。                    平成28年8月23日

 父を推したのは
 父の従弟に当たる人、私の兄のような人です。 その事は父と二人突然知った。
月川温泉に家族全員で夕方風呂に行ったとき、その従弟が月川旅館の事務室で叔父と二人して話していた。 何も気にならなかったが、帰り際父に話が有ったという。
 父は私に相談した。
どう思う? と、私は正直困惑した、いろんな思いが交錯したからだ。  父はあの日の、裏のことを知らない。
いまさら言ってもどうしようもない(父は知らずに亡くなったが、後悔はしていない)平成28年8月24日

 父への攻撃
 時雄君は慌てたのだろう、熊谷操氏しかわずかな望みは残っていないところが泡沫に帰したことで途方に来れていた。そこに考えもしなかった事が起こった。
 彼は自分自身への言い訳が必要だった。
本谷財産区で代表議員になれない!ことで身に染みた、自分にいかに信用がないって事を。自分では散々地区のためにやってきたと、十分地区の人たちに見せてきたわけだ。なのに何故なんだ?!
(誰一人として時雄君を認めていなかった、それは彼の成せること。野心があれば人のためにこそ一生懸命やらないと土台が出来ない。彼は自分の事しかやらないと見極められていた)  平成28年8月25日

 時雄君のやったこと
 彼は計算が狂ったのだろう。 あの日熊谷典章を失脚させたのに、なぜまた議員に立候補するのか! 芽は完全につぶしたわけなのに、冗談じゃない!
 でも彼に言い分は何もない。
だから父に電話をよこした。『園原財産区の代表議員は操じゃないか!それを割って立候補するのはおかしいじゃないか!』 いちゃもんである。 父は当然相手にしなかった。フンとも寸とも言わずに電話を切った。そして、「何か言っとるぞ。」と、話してくれた。 時雄が議員に成りたいのに芽が無いからなあ!って叔父も困っているよ。                     平成28年8月27日

 時雄君のやったこと その2
 この地区には壮年団(私の叔父がつくった団体)という組織がある。それをつくった目的は、園原インター設置要望組織を増やすため。 その目的は達成されたが、叔父が動かせる組織として残してきた。
それは当時の地区運営組織は、園原財産区と本谷財産区であり、全てがその代表委員で構成されていたからです。
その壮年団長を時雄君がやっており、そこで父を詰めようと考えあぐねたのです。
 時雄君から父にまた電話がきました。
壮年団で、立候補予定者に考えを聞きたいとして設営したから出てきてほしいと。 父は、俺だけにその様なことをするのはおかしいではないか?! と返答して電話を切った。
 また、電話がきた。
操さも出てくる。出てこなければ出て来ないとして、壮年団は操さを推薦する。それでも良ければそれで良い! と言っていた。という  まだ立候補したわけじゃない。事前運動とも取られかねない、選挙違反      平成28年8月28日

 時雄君はいつも常軌を逸していた
 ショックすぎて無我夢中で何も見えなくなっていたか、そもそもこの程度の男なのか。
特定団体が、立候補もしていないのに立候補について意見交換したいという、まあ呆れたもんだ。でも、西の谷ではこんなことも通用してしまうことも恐ろしい。
 警察OBに選挙違反にならないか確認をした。やはりその危険性があるとのこと、ただし違反と見なされない方法はあった。村の選挙管理委員長にその方法の確認をとった。
 その当日警察OBを伴い父は出向いた。そして、これでは違反と見なされる危険性があること、そうならないためには意見交換、話し合いはできないこと。そして、選挙の話は一切しないこと!を条件に時雄君と話をつけた。
 それはその通り終ったが、操氏はそんな感度がなかったらしい、聞いていないから。 多く集まった団員の中で、“恥をかかせた!” との、執拗な攻撃の始まりでもあった。      平成28年8月29日

 坊主憎けりゃ袈裟までも
 時雄君にしてみれば無理も無い事である。「本谷財産区の代表は田中治彦になったぞ」 と、叔父が時雄に告げた時、私も同席していた。月川旅館の事務室であった。
 「なんなそれは!(叔父)ならわかるけど、治彦じゃだめだ!」それはそれはすごい剣幕で飛び出していった。
叔父が、「あいつはそんなに成りたいんだなあ?!俺は嫌だ、親父があんなに地区のために頑張ったが、勝手な奴らも多く、時雄と同じように野心があるやつから妨害されて、いやな経験をしてきた。俺はしたくない。」 時雄がおい様に近寄ったのは、おい様を村会に出さないためだよ。だって、治彦さんに二期やってもらって、次はおい様になってもらう!ってことは本谷の衆が皆言ってきたことだよ。 「・・・」 分かっているようだった。                     平成28年8月30日

 村会議員選挙
 時雄君は当然操氏についた。でも田中治彦氏を応援しなければ本谷財産区として先の立場が無くなってしまう。 彼なりに大変な選挙であったと思います。
 熊谷操氏が正規な園原の代表だ
 そう言って園原の締め付けを始めたが、操氏本人も父が出ることの意味と、父が本来の園原財産区の代表と理解している。だから感情的にあおることで園原部落が分裂することを狙いだした。 そうしておけば自身の将来のために成る!と踏んだのだ。                 平成28年8月31日

 時雄君の選挙運動は
 園原には大きなしこりを残すことになった。操氏本人じゃない、周りである。 二人とも、いや三人とも当選したんだから選挙が終われば落ち着くものである。
 部落を割っての選挙戦、園原の人たちは本当に嫌な選挙であったことだろう。 終わってホッとしている人たちがほとんどであったが、一部の人たち、特に操氏の周り、その矛先が全て私に向いた 無理もない
 叔父は難しい立場であった。
本谷で田中氏の選対委員長、園原では父への選挙 そして時雄は操氏を応援している。
選挙が終わった夜中に電話が来た。「やい、疲れたは・・」お世話になりました。「まあ、一番良い形じゃないか。」うん、そう思う 「だけどなあ、時雄よ 困ったもんだ 治彦に、たった五票しか持ってこんのよ、それも身内の票だけだ こんなことで俺が良しとするわけがない あいつはそういう奴だ。」 でも前から操さと同調していたよ、俺らの前では操さの悪口ばかり言って、陰では操さのところへ行っていたんだよ!知ってる? 「おう、そんなことは知っていたよ。あいつは自分の身の振り方だけで、そんな事ばかりやっているから信用されないんだ!」
 この夜は明け方3時過ぎまで話した  叔父は時雄の性格を気づいていたのに このときは    平成28年9月1日

 吉田ひろみ阿智支部
 時雄君は動いた。熊谷操氏は吉田ひろみの後援会役員だ! 熊谷典章が出たため苦戦を強いられている! として、吉田ひろみの後援会にバックアップさせた。 それは大きくそれなりの結果が出た。その事で、操氏の取り巻きまで、「時雄はすごい!」と、なびいていった。
 時雄君の立場の悪いこと。
それは、『操氏の選挙をやった!』と、地区に知れ渡り、一層その評判を落としたことです。 本谷財産区の代表議員を応援せずに それは叔父も一番気にしてしまったことでした。   平成28年9月2日

 時雄君は自分の選挙として動いた
 この選挙で操氏の応援をしたのは叔父への腹いせであるが、吉田ひろみの後援会をどの程度動かせるか?も経験としてつかめたのではないか。また、阿智村で県会議員吉田ひろみを使える男!として認めさせるにも大いに役立ったのも事実である。
 岡庭一雄はどう思ったのか
それはやはり、村長選に打って出るには時雄議員が何よりも必要であり、その様にしてきたのが立候補できなかったのであるからして、操議員を、『助役にする!』というカラ約束をする羽目となったのです。      平成28年9月3日

 次こそ自分の番だ
 岡庭一雄が村長になった。 あの日ともに目指したそれが現実になった。もう全てに手が届くとこに来た。 あとは自分の番だ、何としても次には議員に成らなければならない!
 後二年足らず、ただそれを待っていてもどうしようもない。 ここで作戦を練らねばならない。
岡庭新村長と二人して思いを巡らした。                     平成28年9月4日

 その作戦とは
 園原で二人の議員が出た、これはどちらが辞めようが園原財産区(部落)としてのこと、本谷財産区内の自分にはどうやっても芽が有ることではない。いくら操氏の応援をしたところで、『次はお前だ!』になるわけではない。
 答えは簡単だ。
それは、田中治彦議員を辞めさせること。 答えは簡単に出たが容易なことではない。田中議員はまだ二期目、本人が仮に辞めると言い出しても他の人が、『もう一期』と言うだろう。 ただし、叔父が次に出る!と言えば、みんな納得しこれが一番良い事となるはずだ。 これはどうしても叔父をその気に(時雄推薦)にさせるしかない。                        平成28年9月5日

 叔父の芽は時雄が摘んできた
 叔父には全くその気がなかったのか? といえばそんな事はない。 その事は時雄君が一番感じているから接近したのであり、接近されることにより叔父自身が その気 を封印してきたのです。
 このことも時雄君のしたたかさを現していますが、叔父は子供のためを考えて判断したことです。
 月川旅館の将来。
安定経営は償却資産が無いことであるが、いづれ払い下げの時は来る。その時の事を考えると不安がある。それは誘客施設としての規模だ。
 観光会社を入れないと誘客の安定につながらないとして、その最低規模(50人宿泊)のため二室増築をしましたが、今度は仮橋だから大型バスは通行できないとされた。        平成28年9月6日

 仮橋の架け替え
 この事が叔父の一番の希望、これはすぐに叶えられると思っていたが。 1/3の負担金、これは月川旅館で借り入れすることとしていた。 それに併せ出資金を一人250万増額し1,000万の資本金を2,000万とした。

 これに時雄君は目を付けた
 『社長、負担金3000万何も月川で用意する必要ないじゃん』 二人は本谷・園原財産区という任意団体を作り、そこでヘブンズからの賃貸料を預金していた。その金が3,000万になるまではと目算していたが、父(議員)に『そんな事は無理』と反対されていた。 では、全額補助金でするしかないと、これを持って叔父の気持ちをこちらに向けようとした。              平成28年9月7日

 田中治彦議員
 この人はとっても良い人、父とも一番馬があったようだ。治彦氏2期目、父は1期目、議会の最終日ともなれば必ず打ち上げが私の家。この人は父よりお酒が強かった。父は居眠り、私が最終お付き合い。あまり酒は飲めないが、話しているだけで楽しかった。この人は誰に対しても同じように接してくれる、父と同じ匂いのする人であった。
だから温厚で、議会でも人の前に出る!という感じはなかった。 それが物足りなかったのか、時雄君の芽を既に始めていたのか、こと有るごとに、「やい、4年間何も発言しなかったんだってよ、それじゃいくら何でもな?!」 そんな言葉が気になっていた。            平成28年9月8日

 任期満了が近づく
 父から話が有った。「治彦が出んと言ったよ、時雄が治彦の家に行って降りろ!と言ったようだ。」 なに?!そんな馬鹿なことが、そんなふざけたことを時雄が言ったあ?!  返事が無かった
 返事を聞かなくても分かる。
時雄一人の判断で、いくら何でも出来ることではない。 だから父は何も言わないのだ。

 父は覚悟を決めた
 身内からも、推してくれた者からも、『一期だけ』ならとして父なりに恥を忍んで議員になった。こんないい年をして・・・と言ってはいたが、過去の事故で教育長を辞めた心の傷は癒えていなかった。      平成28年9月9日

 最初は山内村長を助けること
 熊谷操議長と山内村長の確執は相当なものがあった。この事は私が言うより当時の議員や職員の方が詳しく知っていることだろう。
 父はそれを公約とした。
人が聞けば変な話だが、父は真剣にその事に取り組んでいました。田中治彦議員も全くその考えに同調し、対立構造が対話へと代わっていったそうです。
 園原が熊谷操氏、本谷が熊谷時雄 こんな状態になったら西の谷も終わってしまう。そんな危機感で二期目も出なければならない! と決心したのです。               平成28年9月11日

 敵は身内に在り
 園原に住んでいない身内は、その感覚を理解出来ない事は無理も有りません。通り一遍の社会の常識で判断されてしまうことも父は受け入れました。
確かに一期目でその目的は果たされたのかもしれませんが、『時雄が治彦を降ろした!』との、過去に例がなかったこの事実を見極める事は無理でしょう。
 父が一番悲しかったことは。
前回父を推し出した従弟です。 叔父と一緒に、その気がなかった父を議員に出してくれた従弟です。
真っ先に相談を持ちかけました。 でも何も、話さえも聞き入れてもらえませんでした。
前回選挙の後遺症が有ったのかもしれません。だがしかし、その従弟夫婦が揃って熊谷操の選挙事務所に真っ先に顔を出した事が聞こえてきて、仲人親としての父の心情は 私でも聞くに忍びない出来事でした。    平成28年9月12日

 田中治彦議員はこう言った
 もう10月、ご苦労様会があったのか、いつもと変わらぬように打ち上げは私の家がお宿 だが、いつもと違う雰囲気
かなり悔しく、悲しかったのであろうか 「ツネしゅう! 頼んだぞ! たのんだぞ・・」 初めて見る酔っぱらった姿  
分かった・・わかった・・ 話していることは分からなかったが、口を挟める内容でないことは察した

 翌日父から話し出した
 治彦氏に起きたことでした。 昨夜の感じが呑み込めました。同時に、叔父や時雄 二人のやり方に改めて疑問を感じ、どうして “ このような事が出来るのか ” と、信じられない気持ちになりました。
 そして私に、「お前の考えが違うなら、俺は出ない!」という          平成28年9月13日

 選挙告示前
 考えも何もない、同じ気持ちだから辛かった。 どこまで時雄という人間は汚いのだ、初めて許せない気持ちになりました。
 父は決心した。
真っ先に田中治彦さんは駆けつけてくれ、準備から手伝ってくれました。 その日の夜、今日はまだ飲めるなあ と、家族だけになったとき、初めて自身の口から語られた。 時雄の訪問、そこでのいきなりな話
「あれはこう言った。『二期も出て、何か本谷のためにやったかな?』 俺は悔しかった、何でこんな奴に言われなきゃならんのだ、だから時雄に言ってやった。 そうかそうか、俺は出んと伝えてくれ。」      平成28年9月15日

 選挙に成らなかった
 時雄君が出る!ということが世間に広まったのは直前の事、定数一人残していた。伍和で一人、『選挙に成らなければ出る』という人がいた。今日中に届け出がされなければ間に合わない、ぎりぎりを見計らっているんだと人が言う。 『時雄が出たぞ!伍和の一人がまだ出していないみたいだ!どうだ、出るのか出んのか?!』 皆さんそっちが気になるみたい。
 刻々と締め切り時間が迫ってくる。 岡庭村長が顔を出した、父は軽く挨拶を受けただけで選対の人たちと話している。村長の相手をしたのは叔父と私。               平成28年9月16日

 その会話が全てを物語っていた
 「どう? ドカン!とダイナマイトが爆発みたいじゃないかな?」 叔父は黙っていた。
父方叔父が、「時雄がでるんだって言うなあ、誰がついておるんな。いくら出たい、出るっていっても後ろに誰か付いていなきゃ出れるわけがない。」岡庭村長が、「ん、ん。あれはあれで推薦人はいると思うよ。」 父方叔父が叔父に、「誰?」叔父は、「倉田よ、あれら仲間だから、まだそう鉄工の社長か。」 いや、小笠原の社長はそんな事は絶対にしない、専務ですよ。時さと同年だから・・思わず口出ししてしまったが             平成28年9月17日

 叔父はやはり知っていた
 岡庭村長は叔父を見るが、叔父は視線を合わせていない。その雰囲気に気付いていたのは私だけでなかった。
岡庭村長が帰るのと入れ違いのように倉田氏が来ました。 今期で辞めたのだという。
 父方叔父が、要らん事を聞く
要らん事とは倉田氏にとってだが  父方叔父はそういう事には突っ込む人  「時雄が出たっていうなあ、地元に票がないから大変だ。治彦さを降ろしたっていうし、そういうやり方をするとあと後付いて回る、どうしても誰か地元に付く人がおらんと。」 話の途中で叔父は立ち上がってトイレに行った。              平成28年9月19日

 伍和の人を降ろしたと言った
 倉田氏はハッキリそう言いました。 私が、伍和の人が届け出れば選挙になりますね。と聞きましたら、「あんな者は出んよ、出んと言ったからな、降りますと言っておいて、もし届けを出すなんてことしたら許さん。」
 この人こそ何を言っているのか?! これは恐喝ではないか、選挙妨害にもなる。 こんなことを平気でやる人たちなんだ  恐ろしい人たちだ・・と、この時感じました。      平成28年9月20日

 岡庭や時雄の周りはこんな人たちが付いている
 漠然とした不安が残りました。 届け出の時間が過ぎました。父も遊説から帰り、無投票となったことを知りました。
当選祝いがひと段落しほとんどの人が帰られましたが、そのあと、叔父と父方叔父が二人で話しているのを目にしました。 なぜかその光景は今でも目に焼き付いています。
 聞こえてきた叔父の言葉
「俺はどうしても橋をかけ替えなくてはならん・・」 それが聞こえたとき、先ほどと同じ不安を感じました。
そしてそれは 現実のものとしての始まりでもありました。            平成28年9月21日

 その続きは父方叔父が話してくれました 事有るごとに
 時雄は出たいと言ってきた、俺は立場上何もできない。 「俺がなあ、時雄が自立で出れるわけがない、叔父が裏に付かなきゃ出れっこない。って聞いたらなそう言ったんだよ。」「それでな、今典章と戦っても勝てっこない次まで待てよ。と言ったのに聞く耳を持っていないので、まあ、選挙に成らなくてホッとしたよ。と言っていたけど、兄貴のことを敵として攻撃しているのは確か、叔父だって、時雄を出すだけの裏の腹があるよ。」
 治彦さを降ろしたこと、時雄が一人で行ける事は絶対にない。治彦さだって時雄がきただけじゃ降りるわけがない。「それはその通りよ、選挙の夜に俺にハッキリ言ったんだから、橋を架ける話だ。」       平成28年9月22日

 父は色々なものを背負っていた
 選挙なんてそんなものなんですね。 思惑を持ってる人の方が当選する。 その考えが良い政治を行う方に向かえばよいのですが
それから二年後、父は倒れた。 腎機能不全  再起は無理でした。 父にももう気持ちは残っていなかった。
 そんな父のもとへ訃報が。
『哲が死んだ!』 それを聞いた時の父の言葉 「哲が死んだ?!・・・哲を死なせてしまった・・」事故だそうだ、車が落ちた・・こうでこうだ・・話しても聞こえているのか?    平成28年9月23日

 哲を死なせてしまった
 この言葉が耳に残りました。 すぐには聞けなかった。
父は葬式に行くという。 まだ無理である。 俺が行くからいいよ と言っても、「乗せてってくれるか。」聞いていない。 迷ったが、これがきっかけに成れば意欲が出るかも知れないと思いました。
 当日のこと。
阿智村長が葬儀委員長、葬儀場が阿智村公民館
こう聞けば聞こえが良いのかもしれない。 下手をすれば、岡庭村長は職員のことを親身になって考えている!とも捉えかねない。                          平成28年9月24日

 事故状況
 恵那山登山者の入山記録簿回収の帰り、ハンドル操作を誤り15mの谷底に転落死  事故想定時間 夕方5時過ぎ頃
 私の現場確認
 事故が起きたのは、日没のうす暗くなり始めたころ  恵那山登山者入山記録簿提出箱は、事故現場から300m先の登山者専用駐車場に設置されている。
 道幅は2,500mくらいであるが、山道のため普通車だとかなり狭く感じる。  駐車場から100m程度は緩やかであるが、それを過ぎると急な下り坂になり、自然と速度は上がってしまう。 時速は40kmは出ていたと思われる。
 転落した場所の先は大きな左カーブがあり、そのカーブに差し掛かることを知っているドライバーであれば誰もが減速をするためにブレーキを掛けます。
 車は、ススキエスクード(初代型)4WD(パートタイム) 一回転してルーフから落ちている。 平成28年9月26日

 タイヤ痕
 転落した場所に急ブレーキを掛けた跡が有る、でも2mほど。 そこにはコンクリート製の道路水切り用の溝が横断しています。
ブレーキ痕はその溝までで終わっています。 溝の山着けには食い込んだタイヤ痕がありました。
 ハンドルを取られた。
急ブレーキを掛けたため前輪タイヤがロックし、無制御状態になったものと推察される。四駆を掛けていれば急ブレーキでそのようになることを経験したドライバーはおられると思います。
そのような状況で水切りの溝に侵入したために大きくハンドルを取られ、左側の山着けに乗り上げたようです。
 制御が不能となった。
山に乗り上げた反動で大きくハンドルは右向きとなり、そのままコンクリート製の水切り溝を支える石積の上から2m下の山に突っ込み、後ろから反転しながら落下していました。    平成28年9月28日

 タイヤが上を向いていました
 ここまででいくつかの疑問が出ました。
最初に思ったこと、なぜここで急ブレーキを掛けたのだろう? この先に大きな左カーブが有るのは知っているから減速してくるはずであるし、その10m前で急ブレーキを掛ける必要がない。
なぜ哲は一人だったんだろう? 業務中の課長の移動は同伴でなければ出来ないこと、まして自身でハンドルを握る何てことはない。
なぜ死んだのか? 翌日の昼過ぎにヘリコプターで病院に搬送されたが、まだ体温は有ったという。 職員が、まして課長職が帰庁していない事に、役場でその異変に気づかないはずがない。平成28年9月29日

 なぜここで急ブレーキを掛けたのだろう?
 遅くに役場を出たことにより、入山届を改修したころには薄暗くなっていたと思います。いつもよりスピードが出たのは帰りを少し焦っていたのかもしれません。薄暗くてその大きな水切り溝に気づくのが遅れたのかもしれません。
そんな状況でもハンドルが取られるほど急ブレーキを掛けるなんてことはあるのでしょうか。
 その水切り溝で大きくバウンドすることは分かりますから、ブレーキを掛けたとしても車の動作は想定できることでしょう。
 此処で気づくこと
前輪が左山側に乗り上げていること これは明らかに左にハンドルを切って水切り溝に侵入したことになります。                                  平成28年10月1日

 なぜこんなハンドル操作をしたのか
 この溝に気付かなく侵入したとしたら、ハンドルは直進方向のままでしょう。 溝でハンドルが左に振られたとしたならば、溝自体が斜めになっていなければならない。
 この最初の矛盾は警察の事故調書で指摘されているのか?
おそらく指摘されていないと思う。事故調書では、どの様に落下したか!であり、何故落下するに至ったのかは明らかにされていないと思います。                   平成28年10月2日

 この矛盾は田中治彦氏の話で理解できた
 田中治彦氏の自宅は道路に面しています。「あの日なあ、夕方から夜中に掛けてオートバイがうるさくてなあ・・あまりに何度も行ったり来たりしているようなんで表に出てみたんだよ。そしたらなあ、まだ若いあんちゃかな、オートバイも音がうるさくてなあ、そのオートバイが山の方へ行ったかと思うと、少しすると降りてくるんだよ、何度有ったか分からんが夜中まで続いていたよ。」
 どんなバイクでした?音がうるさいっていうと山道を駆け上がるバイク、モトクロスかなんかだけど、そんなバイクでした?「いやあ、そこまでは暗くてわからんけど、何しろうるさくてなあ・・」         平成28年10月3日

 もしかしたら
 この話を聞いて考えたことは、『もしかしたら、そのバイクとの出会い頭ではなかったか?!』
そう考えると辻褄が合ってくる。 夕刻の帰り道 それも緩やかだが下り坂 スピードも思わず出ている
大きなカーブに差し掛かる そしていきなりバイクが飛び込んでくる バイクを避けようとして左にハンドルを切る   左に向いたタイヤは溝によって制御不能に ・・・
 このバイクを見た者は
他にはいないようだが気になる話を聞きました。 夕刻近くの農協販売店(物品・スタンド)にバイクに乗った男が来て、「山の上の方のがけ下に車が落ちているようだ」 そう言ったというのだ 平成28年10月4日

 なぜ哲は一人だったのか
 何処の役場でも課長が一人で外出することはないだろう、はっきりとは知らないが公務規定が有るのではないか。
 なぜ一人で出かけたのか?
それはやはり、係長以下に同行する者が居なかったと考えられる。同行できる状態の職員が居たのであれば、帰庁しない課長を不審に思うからだが。
 ここで考えられる哲の状況。
哲には一人でも行かなければならない『状況』があった?! 観光課長、この責務の中で起きた事故で有るゆえに、その立場がそのような無謀な外出に成っていたと考えられる。     平成28年10月6日

 その時の哲は
 議会で責められている、それも特に小笠原議員からである。 
 その内容は『園原史跡駒つなぎの桜』
当時阿智村の対応は、岡庭村長自らが先頭に立ち花桃観光に全ての力がそそがれていました。 花桃の開花に合わせ主に中京東海方面からの入込が多く、県道や中央道園原インターの混雑は異常な状況であり西地区全体がパニック状態になるほどでした。
 花桃の開花と桜前線。
駒つなぎの桜が写真誌などで紹介され全国的に有名になり始めたころ、多くの見物者が園原を訪れるようになりました。
飯田・駒場・昼神、そして園原 と、桜前線は順番にやってきます。その中でも駒つなぎの桜は集落の最奥にあり、園原中の桜が咲いた一番最後にやっと開き始めます。         平成28年10月7日

 駒つなぎの桜 開花は4月下旬
 4月下旬ころから花桃が始まります。 そうなんです、駒つなぎの桜の満開と花桃の咲き始めが重なってしまうんです。
叔父や時雄君は岡庭村長を花桃祭り実行委員長にして花桃に全面的対応してしまうために、駒つなぎの桜観光客への対応が出来なく、駒つなぎの桜観光客の対応は園原部落が行わなければならず、何も収益が出ない中で若い人たちは頑張っていましたが十分な対応が出来ませんでした。
 それはいつか苦情へと変わりました。
『村は花桃だけに力や予算を与えており、園原や駒つなぎの桜については何もやらない!』
そんな雰囲気の中で熊谷哲観光課長に圧力が掛かりました。そのことは同時に岡庭一雄村長が有る思惑を持つ事に成る始まりだったかもしれません。                  平成28年10月8日

 もう緊急を要する状況
 ヘブンズの駐車場から、中央道園原インターから観光客の車が数珠つなぎ、動きません。
それはもう苦情を村に言っている状態ではなくなりました。 『ヘブンズに車を停めさせろ!そこからマイクロバスで駒つなぎの桜まで乗用させるしかない!』 その声は岡庭村長に直接届いたようです。
 「おい哲! すぐにマイクロバスを用意しろ、運転はお前がやれ!」
観光課長としても何とかしなくてはならないとして岡庭村長にその様に進言していたそうですが、熊谷時雄議員や叔父からの、『園原なんて関係ない!花桃に集中しろ!』の裏指示で岡庭村長は一切動きませんでした。
交通がマヒしてどうしようもなく、岡庭村長が指示を出さざるを得なかったそうです。平成28年10月9日

 哲が運転していた
 その日、部落の秋祭りであった。 月見堂(広拯院)の前に駒つなぎの桜観光客のマイクロバスが停まりました。
見ると哲が運転していました。 おい、どうしたの課長自ら運転か!? 「ああどうも、そうなんだ。これだけ来てくれるんだから・・」 そうか、よく急に手配が出来たじゃないか 「ん、何とかバスは手配できたが運転手が居なくてな。」 そうか、大変だなあ頑張ってな  にこっと笑って上がって行きました。        平成28年10月11日

 桜終焉~花桃へ
 駒つなぎの桜シーズンが終わりをつげましたが、その頃はもう花桃観光のど真ん中です。 駒つなぎの桜は終わっても園原には花桃に来た人たちが大勢押し寄せており、交通規制はかえって混乱をきたす状況でした。

 議会に通らない
 この話はあとから聞こえてきました。 議会でおおもめしたんだ、駒つなぎの桜観光対策費用    平成28年10月12日

 熊谷時雄がねじ込んだ
 岡庭村長に、「花桃祭りに人や金を出さないくせに何で園原にはそこまでやるのよ!」と、言ったらしい。小笠原議員は恐らく二人に根回しされていたと思われる。
 議会で課長を責める!
マイクロバス等の費用が50万であったそうだ。小笠原議員は、『議会に何も話が無い!どうして園原にそこまでするのか!』同じような言葉で詰問したらしい。
 岡庭村長は逃げた。
『それは観光課長が独断でやった事だ』岡庭村長はそのような事を言って責任を擦り付けたようだ。 哲一人の責任となり、『観光課長が議会で個別に陳謝する』そんなあり得ない状況であったようだ。       平成28年10月14日

 これを独裁行政と言わずして
 こんな事、有り得ない光景ではないでしょうか。こんなバカな事が平然として行われていたのですよ!
小笠原さんが議員として “ その様な事 ” で行政の在り方を詰めるのは当然かもしれませんが、それは岡庭村政に対して行われるべきもので、『観光課長に頭を下げさせた』なんて事は、個人攻撃以外何ものでも有りません。
 議会を恫喝する!
このような異常な事態と思われる事が平然と行われているのに、他の議員は “ 黙して語らず ” でした。
この程度の議員で有れば、他の何かを追及出来るような不条理が有ったとしても、簡単にいなされたのではないでしょうか。 何をしても、何が起こっても、議会ですら思い通りに成る! 思い通りに成らなければ、最後には、『 恫喝! 』 共産党員が天下を取ると、『 こうなります 』 平成28年10月15日

 四面楚歌
 言い訳をしない男、だから信用があるのです。 頭が良くて信用がある。(当時の職員の方、知っているでしょ)
 父は言いました。
彼は信用がある。山内村長二期目の助役は彼しかいないだろう。 そんな感じは皆さん分かっていたと思います。
 疎ましく思う人もいる、ってこと。
激しい選挙戦で岡庭さんが村長に成りました。 彼の役職は観光課長、頑張っていました。
 焦りが出てしまったのかもしれません。課長一人で出かけたこと、責任感、だったのでしょう。  平成28年10月18日

 父の悲しい思いは
 信濃比叡と伝教大使 この整備を阿智川会長とともに岡庭村長に依頼した日、観光課長としてその話しを実現するため総合計画書のまとめを岡庭村長から指示されました。
 園原の歴史整備事業。
東山道復興会(この名前、羽場さんが取っちゃった)を設立し、園原部落全員の組織としました。
駒つなぎの桜は義経都落ち伝説の史跡、その桜に観光客が押し寄せ交通渋滞の中で混乱している。その対応に観光課長自らがバスの運転までしてそれを凌いだ。 なのに、議会で非難される。
 哲は観光課長としても。
父としては哲が頼りだった。お軽い村長は二枚舌のところがある、そんなことは誰でも知っていました。信濃比叡や東山道復興は哲がいなくては進まなかった。           平成28年10月21日

 責任感の強さから
 東山道の復興 哲の双肩に重く圧し掛かっていたのではないか 父はそのことが頭からはなれないと言った
恵那山入山届けの未回収に気付き一人で出かけてしまったのも、そんな責任感が有ったのではないか。

 危機管理能力の欠如
 定刻過ぎても課長が戻らない 公用車も無い  その事に気づく職員は誰もいない 皆帰ってしまった
こんなバカな話し あり得ますか??
 総務課長の職務責任とは。
一番最後に帰ることではないでしょうか。 日々、この事は当たり前に行われて然るべきこと。 平成28年10月22日

 聞こえてきた話
 帰ってこない・・との連絡があったがすぐに動かなかったらしい。 観光課の職員二名だけがその対応に当たったようだ。 恵那山入山届を回収に行ったのではないかとして、そこまで行ったのは夜遅くだった。何も気づかなかったみたい。 職員は村長にも連絡したようだが、特別な指示はなかったらしい・・・
 夜が明けてもう一度恵那山登山口に向かう。
二人の職員がもう一度行ったらしい。 ブレーキ痕を見つけ、落下している車両を発見した。 平成28年10月25日

 すべては結果論だが
 悲しくつらい 何ともやりきれない そんな気持ちになったのは職員だろう 哲の仲間だろう
どうして? なぜ? なんでそうなってしまったのか? 多くの疑問がその皆さんに生まれてしまったと思う
 そして、その疑問の答えは多くの皆さんにはすでに分かっていたと思う  だから悔しいのだ 辛いのだ

 村主催の葬儀  この事で殊勝な気持ちを表すことが出来たのか? 亡くなった人に敬意を表せたのか?

 行政はその姿勢を現す事が必要
岡庭村長は、“その事” が出来たのでしょうか  議会は、“その事” を確認したのでしょうか  平成28年10月27日

 見える形にすることが
 この事故時における岡庭村長の対応については、どこの新聞社も記事にしておりません。 どうしてでしょうか?
 事故後の対応も詳しくは書かれていなかったと思います。 議会に対して理事者の処分提案の事が一部記事にされた程度でした。  どうしてでしょう? なぜ新聞各社は追求しないのでしょうか?
 報道機関の姿勢は?
田舎だからこんなものなのでしょうか・・ それは違うと感じます。 もう少し違う、『な・に・か』が感じられるのは私だけでしょうか
 危機管理能力の欠落は、致命的な事!
危機管理の欠落、その事において職員の命が失われた。 これは減俸程度で収まることなんでしょうか? 総務課長を形ばかしの更迭をして終わる事なのでしょうか。        平成28年10月28日

 のど元過ぎれば
 個人感情であれば通用するかもの言葉でありますが、機関としてはあり得ない言葉です。 二度と起こしてはならないこと。 であれば、その姿勢は目に見える形にして日々精進していかなければなりません。
 その後の岡庭村政にはびっくりしました。
その総務課長を含め、職員三名を参事職にしたのです。 副村長を置かない人事案として議会諮られ、言いなりの議会は何なりと承認している。
 考えられますか?
職員に執行権を与えたのですよ?! それも三名に! これで阿智村は彼等のものとなりました。 そして、官製談合のような大変な犯罪を起こすことにつながっていきました。
 なのに村民は、誰一人としてその異常さに気づく人がいませんでした。     平成28年10月31日

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 公金横領
 本谷・園原財産区は任意団体である。そこには条例による財産区の財の字も存在していない。 だがしかし、この団体の運営資金は、本来の両財産区各々の賃借料である。
 その賃借料が、本来入るべく各々の財産区でなくして阿智村に入っている。そして阿智村は、地域振興補助金としてこの任意団体にその相当額を拠出している。
 阿智村から補助金が支払われており、その金が運営資金と成っているのであるからして、この団体は既に公的団体とみなされ資金は公金と成る。                   平成28年11月2日 

 使途不明金
 本谷・園原財産区の預貯金から875万円が引き出され、土地代として地主に支払われた。
このお金が会計報告されていない。
 この事だけで犯罪である。
何をもってしても解決できることではない。既に、話し合うことでは解決されないのです。

 この事により発生したと思われる不正
・領収書が無いということは、『地主は申告していない』とのことであり、これは税務署が対応することである。

・この土地を、『地主が阿智村に寄付をした』としていること。これが、『虚偽』であった。
・虚偽であったこの土地に、『阿智村は公園として整備』を行っている。
・公園として整備されたこの土地を使用して、花桃祭り出店場所代を徴収している。
・何れの事も当時の村長は承知している。                    平成28年11月4日

 まだまだ問題が
 阿智村から補助金として支払われていますから、当然監査は毎年行われて議会承認を受けている事になりますし、実際そのように行われていると思います。
 決しておざなりでは出来ないこと。
阿智村も平成9年から毎年補助金として支払っている限り、この団体の会計報告を受け、補助金がその目的に合った使われ方が成されているか監査を行わなければなりません。いや、行っていなければ、村の監査を受ける根拠がない事に成ります。
 果たしてどうでしょう?
正常な監査が行われていれば、使途不明金など発生する由は有りませんよね?! 公園は公園として、地区にその効果が有ることではないでしょうか。                 平成28年11月7日

 本谷・園原財産区の問題点は
 この土地を購入するとの話は、叔父と時雄氏が進めたことである。購入交渉はすべて叔父が行い、そしてこのような筋書きで進めるということも二人が決めている。
 本谷財産区ではこの事に反対する人は数名いたが、異を唱えられる者は誰もいなかった。それほど二人の圧力が大きかったといえよう。
 では園原ではどうだったのか。
噂話しの段階で聞こえてきていました。不純な動機であることは誰しもが感じており、『おかしいではないか!』『花桃の駐車場に使うのではないか?!』と、不平不満でありました。    平成28年11月9日                                                        

 しかし、本質がわかっていなかった
 園原は最初から無視されており、噂話しで聞こえてきたころにはすべて終わってあとは地主に支払うだけでした。 それでも支払うとなれば山林委員会での承認が必要。
 園原だけが反対している。
このような言い方で根回しされていましたが、園原の人たちもそこまではお人好しでない。園原部落として反対の旨を山林委員に託しました。
 反対の理由がない。
『財産区として土地の購入は出来ない』このような基本的なことを知らない、財産区の何足るかが理解できていないのですから、反対するにも“言い分”がないのです。
「地区の景観を壊している場所じゃないか!自治会では購入できないんだから財産区が買うんじゃないか!」と、力まれば受け入れるしかなく、あとは彼等の意のままになっていきました。平成28年11月11日

 それどころか
 その時叔父は総代でも山林委員でもありません。全ての地区の立場は、既に息子に代えていました。 なのに、山林委員会に出席し、この様な持論を展開したのです。
園原総代が熊谷操氏、園原部落へは『反対する!』と言っておきながら反対する園原山林委員を手助けさえしていません。(反対した園原の委員は今の議員です)

 問題はここにも。
代わったばかしの息子を総代にし、その上会計をやらせていた。 その息子に直接指示し、信金貸金庫に在る預貯金通帳から875万円を地主に支払ったのです。
証拠が残らないよう、財産区としては振込送金はしていないと思います。     平成28年11月13日

 この様な作為的な事が平然と行われる恐ろしさ
 一般社会人であれば、このような事考えもつかないのではないでしょうか。 反対する人たちも、財産区云々が理解出来ていなくても、『こんな事は社会として出来る事ではない!』と、なぜ思わないのかが不思議でした。
 その時、ひと世代前の人たちは。
財産区の経過を知っていた世代、何人かはいました。しかし、この人たちはすでにあきらめていました。
 時雄君の天下。
岡庭一雄と熊谷時雄、村長と議長 この時、阿智村の中でどなたかこの二人に何か言えたでしょうか!?
智里西地区の世代が代わった人たちは、『村長と議長がやること』に、何も不信は抱かなかったのです。平成28年11月15日

 阿智村の村長と議長だ
 花桃の駐車場として利用する。とのことが既成の事実であることは皆分かっていました。それに併せ、購入した土地に隣接している土地も駐車場に必要だとして借り入れている。(同じように本谷・園原財産区と賃貸契約している)
 名ばかりの公園整備。
噂で聞けば1,000万で整地をするという、駐車場としてだ。 自治会へは、熊谷時雄議長が、『地区へ公園を造る』と公言している。 整地の内容も叔父がすべて口頭で指示している。
 公園なんて誰も見ていない。
整地工事の内容も叔父がすべて口頭で仕切っておりました。 叔父に聞けば、「村長が花桃のために金を付けてくれた。そりゃそうだろう、その為に花桃祭りの実行委員長にしてあるんじゃないか。」 村長と議長がこのように進めれば、何事も平然として通ってしまうのです。(他の議員は気づかないの?)           平成28年11月17日

 駐車場でもなかった
 兎にも角にも大勢の観光客が車で押し寄せるため駐車場の確保が優先事項でしたので、購入してから一年は駐車場として使用したと思います。
 それがなぜ出店の場所となったのか!?
県道の道路敷以外は駐車場として使用していたので、出店は林業活動拠点施設の駐車場を中心とした空地を利用させ、そこで場所代を取っていました。
 地元が中心でなくなった。
当初は地元の人たちがシイタケとか花桃の苗とかの販売で場所代はありませんでしたが、そのうち地区外者が出店したいとの話しが有り、それなら場所代が取れる!地元もタダにする必要はない!と決めたようで、各場所においてそれなりの出店料を取るようになりました。
 地元の人たちが売るのはしれた物。
出店代を払えるような収益はないですから、とても高額な場所は望めません。中心から離れた場所に出店した人もいましたが、とても合わないとして止めてしまいました。       平成28年11月19日

 金になる 場所代は大きな収益
 開花シーズンの営業で数百万を売り上げる店あるそうだ。 ならもう少し上乗せしよう!と考えた。それには条件を同じとしなければ成らない。(これ、商売人の発想?)
 人の金で人の土地で。
その考えは大きな収益をもたらすことになりました。 今までの場所代は100万程度、それが300万を超えることとなる。 さすがに考えることが違います。減価償却がないから総額が利益です。
 人件費はどうなのか?
押し寄せる車を裁くのは交通整理係、駐車場案内をして料金を徴収する係、これらで十数人でしょう。
交通整理係は嘱託の交通安全指導員を動員している。(費用支払い不明) 駐車場案内には村職員も動員されており、職員だからとして賃金も支払われていないようです。       平成28年11月21日                                        

 れっきとした営利事業
 岡庭一雄村長を花桃祭りの実行委員長にして、時雄議長は子分のように職員を動員させていました。思い通りに動かない職員を罵倒するなんて当たり前。(移動させられた職員、実際に居ります)
 好き放題のやり放題でした。
この様なやり方であれば多くの収益が上がります。 この収益は全て彼等のポケットに入っておりました。
 これは儲かりすぎる。
・・万が一のことを考えて、一部だけ、それこそ採算ベースギリギリのとこだけ会計報告しておいた方がよい。 会計報告が表に出ないようにするには自治会に付属させてそこで形だけの報告をすれば良い・・    平成28年11月23日
(こんな事、この時代に有るの? 安っぽいドラマでもこんなあらすじでは視聴率も取れないよ!?)

 
 それを知らない地区民
 自治会組織に別会計を持った花桃管理委員会を付属させる。その委員会に各部落から1名の委員を選出させ、委員会を組織化させる。そして形だけの会計報告をして承認を受ける。
 これを長年続けてきました。
この事に疑問を持つ地区民は誰ひとりいませんでした。地区の有力者と議員がやることですから、良いのだろうと思ったのでしょう。 自治協議会とは何たるか! も理解されていません。 言われるままに従ってきております。
 自治会であっても課税されます。
自治会では事業が出来ません。どのような方法を用いても、収益であれば課税されます。その様なことも知らない有力者と議員が牛耳ってきていたからこそ こうなってしまいました。 平成28年11月25日

 村民を騙す
 多くの阿智村民はこの様な事に関心が無いと思います。関心が有る村民でも、具体的な事象まで踏み込んで聞かれる方はいないでしょう。
 それは何故なのか!?
一番の問題は、『職員』です。職員の姿勢です。 職員の『知識・能力・判断力』 この三点が実行されていなかったのです。
 なぜ?実行されなかったのか。
それには個々の資質も有るかもしれません。だが、一番気になるのは、『かん口令』です。 一件、時代錯誤のようにも聞こえますがそうでもありません。職組が共産党系になってしまえば、そうなってしまうのです。
県下で4町村にしかない共産党系の職員組合に岡庭一雄が付属させたのです。
 それが要因です。
そうなってしまえば、“そうでない職員” にも影響が出るでしょう。 岡庭一雄の顔色どころか、党員職員にまで気を使う事になります。                       平成28年11月27日

 村の事は職員が一番知っている
 当時の職員構成を覚えていますか? 党員である程度の年齢にきている職員は、それなりの立場であったでしょう。
最も、誰が党員であるか?なんてことまで知っておられる方は少ないでしょうが。
 これはおかしい?!
小さな村ですから、職員であれば殆どのことに目が行き届いていると思います。その中で、『これはおかしい!これは変だ?』と気づくことが有ったと思います。 その様なことを口にすることも出来ない、そんな雰囲気であったのではないでしょうか。
 議員まで隠れ党員が居る状況ですからね。
昔、共産党は堂々と名乗りを上げていました。それも二人、二人目は当落寸前でいつも接戦を演示していました。人口からいってその程度であり、それが平和の均衡でした。
 それがどうでしょう。
隠れ党員議員が居る時代に、知らぬうちになっていたんです。 何故?こうなってしまったのかと考えれば、それは村民の無関心そのものではないでしょうか。
 おかしいな? そう感じてもものを言えない!
下手なことを言ったら攻撃される! その様に感じた方もいるでしょうが、何よりも、『時の力!時の権力!』に、へつらう方が多かったのだと思います。              平成28年11月29日

 時代錯誤
 18才から選挙権が出来ました。若い人達が社会に関心を持つどころか参加できる時代になりました。その様な時代に成った一方で、相変わらず老害が蔓延っているのはどうしてでしょう。
 年寄りの言うことは聞くもんだ。
私たちが子供の頃はこう言われました。そこには、無難に、人様に迷惑を掛けず、清く正しく生きるための教えがありました。それは、人様に迷惑を掛けずに生きてきた人の教えだから身にしみ、身についていくものでしょう。
 私が言う老害とは。
年寄りのことではありません。一定の権力を保持しようとする時代錯誤な人達のことです。それは民間であればある程度は許されるかも知れません。しかし、地方公共団体にあっては決して有っては成らないことです。 平成28年12月1日

 阿智村は蔓延していました
 蔭では批判するが、表立っては何も言えない・・ これは無関心でなく、行政について知らないからである場合と、何かしらの仕返しを恐れてのことです。
 岡庭一雄と熊谷時雄を恐れていた人たち。
彼等二人は仕返しをする人間でした。それを知っているからこそ、恐れ、何も言わなくなっておりました。
智里西だけではないでしょう。何かしら行政に関係する人たちも大いにその様な状態で有ったでしょう。
 村民がそうであったから。
職員はもっと酷かったでしょうね。 熊谷時雄が議員を辞めた時、ホッとする職員は多かったと思いますよ。でもそれは一週の事、岡庭村長が居る限り悪夢から覚める事はなかったでしょうね。
 私は外部の人間です。
自身が関わった件しか証明できませんが、職員の方、退職された方はもっと知っているでしょう。岡庭一雄と行政に携わった方はより多く知っているでしょう。                                    平成28年12月3日

 勇気を持つ
 間違いは誰にもあることで、それを責めることはできません。間違いと気づけば修正しようとすることも当然でしょう。 また、起こしてしまった間違いが、他の人に影響を与えたとすれば謝ることから始めるのではないでしょうか。
 責任を持つ。
間違えたことに対して責任を持つ! これも当たり前の事です。 間違いを間違いのままに出来ないからこそ責任をもって対処する。
 公人であれば尚更です。
責任を取って辞める!とのことは、辞めることでしか責任が取れない場合です。 辞めることで解決しないことが有ったとすれば、解決してから辞めるべきでしょう。
 間違いに気づいた場合はどうするのか?
行政業務の中で間違いに気づいた場合、職員はどうするのか?どうしていたのですか? 平成28年12月5日

 それが不正だったら
 それが不正と気づけば、それこそが告発しなければならない公務員の義務です。 それを実行するには勇気が必要です。 その勇気はなかなか無理でしょう。 岡庭村政で、熊谷時雄議長なんですからね

 私がこのサイトを始めた理由の一つに、この事があります。 『このサイトを利用していただきたい』
告発なんて大げさに考えず、コメントを入れていただければよいのです。
こんなことが有った! とか このような事はおかしくないですか? こういう話を聞いたが?
何でも、どのような事でも書いていただければ構いません。 このサイトは多くの人が見ています。 平成28年12月7日

 16年の総括
 岡庭一雄は共産党員であり、共産党員を辞めた形にして村長に成りました。 4期16年間、村長の職にありました。
その長い間、共産党員ではなかったのでしょうか? どうなんでしょうね、“辞めた形”であれば、長い間共産党員であり、共産党会議にも出席していたことになりますが。
 この事、とても大きな問題です。
自民党の国会議員吉田ひろみが、“共産党員でない”として村長にしたのですよ! 
それが、蓋を開けたら、“共産党員のままだった” となれば、長い間自民党の吉田ひろみと共産党員の岡庭一雄が、『疎通』していたことにも成ります。                平成28年12月9日

 吉田ひろみは知っていた
 岡庭一雄が共産党員なんて、そんな事当然知っていました。『そんなふうに見えないのが、大したものだ』この様な言い方でした。
 吉田ひろみには驕りが有ったのでは。
吉村知事に、“駄犬”と揶揄させても、長野平の議員として頭角を現して県会の議長まで上りつめた人ですからね。
参議院の道も開かれ、あれよあれよで国会に! 
 知らなかったのは熊谷時雄の事。
彼の野心には気付いていたでしょう、それも、村長までの道が有るという事も。
 まさかまさかの真坂は知らなかった。
彼が革新だと、それも紅くどころか赤黒い人間だとは知らなかったと!? 最大のスポンサー時雄氏が、『阿智村の村長に岡庭を推せば、共産党はハッキリと辞めたとして!』 阿智の村議選(熊谷操)にまでひろみの後援会組織を利用するほどの付き合いをしていたのにだ!     平成28年12月11日

 政治的な判断
 ひろみに政治的な判断はあったのだろうか? 県会から国会議員になろうとする者が、それも自民党員で議長まで務めた看板議員が、選挙区の首長に、『共産党員』を推することにためらいはなかったのか?!
 自民党県連は黙認した?!
岡庭一雄といえば、共産党の中でも特に行動的な党員であることは自民党の中でも周知の事実、ひろみが、「知らなかった!?」「党員を辞めたから」と言っても通用する話しでない。なのに、それを黙認している・・それが不思議で成らない
 阿智村以外の首長はどうなんだ。
過去、共産党員が首長になった例はない。と、思う。(私が知らないだけかも)高森町で革新的な町長はいたが、これは社会党系と聞いている。(職組の関係か?)          平成28年12月12日

 信濃毎日新聞への疑問
 この新聞社の歴史についてはネットで調べれば分かること、私個人の認識として疑問に思うことを書きます。
 前もって・・
長い間家の中心紙でしたが、例の父親の事故のことが私のわだかまりとなり、他紙に切り替えました。
その後、改めて疑問に思ったのが、『松本サリン事件』の誤報道です。 間違ったのですから、まず最初に謝るべきでしょう。それがなければ、正しい報道が出来なくなってしまいます。
 度が過ぎる!
謝らない上に、言い訳でもって追求をする姿勢が異常に見えました。(なぜ?ここまでするのか?) 担当した記者個人の行動であっても、そこは内部で諌めること、それが何故?出来ないのか。(やはり、社の姿勢なのか)
 報道は一方通行です。
 新聞社も正義の味方ではありません。そう思っている県民は僅かでしょうが。 殆どの方が、新聞やテレビで報道されれば、『それが事実!それが真実!』 そう思ってしまう と、いうことを根底において記事にしているでしょうか?! そこに少しでも事実と違うことがあれば、それを報道してしまったとなれば                                 平成28年12月14日

 なぜ! 私は信濃毎日新聞飯田支社にだけ 公開質問状を見せなかったのか

 二つの理由
 一番信用が出来ない新聞社であるという事。
南信州は田舎新聞であるが、それだけに記者が住民の気持ちに近い。間違いはけして書かない、大きな事件であっても、二の足であっても、後れを取っても間違った事は書かない。
 一つ目の理由。
熊谷時雄、岡庭一雄との関連が強いからである。 これほど犯罪に近い事をやった理由が分らない。誤報でも何でもない、明らかに作為的な事ばかしである。 どこに報道機関としての使命が有るか分らないが、この二人にこれほど片寄する理由が分らない。 やはり、同じ思想の持ち主が、信濃毎日新聞に居るということか!?    平成28年12月16日

 社員は看板
 新聞社に限らず、会社というものは社長が看板ではありません。そこに働く全ての社員が、その会社を現している事でしょう。
 極端な人たちがいる。
新聞社のように、社会の隅々まで目を向け、そこに疑問があれば充分な取材をして記事にする事は当然です。 ですが、最初から偏った目で、“疑問を探す”様な事を行ってしまえば、それは事実を歪めてしまう事にもなりかねません。 信濃毎日新聞には、その様な極端な人たちが存在している!?と、感じています。 そのように感じている人は、けして私だけではないでしょう。    平成28年12月18日

 信濃毎日新聞
 私が書き出していることは極端な話しです。それも私の考えだけであります。 信濃毎日新聞社がその方向を向いていると断言する事でもありません。 松本サリン事件の報道は、何も偏った考えで一方的な記事にしたわけではありません。警察の捜査に誤りがあったために信濃毎日新聞社が巻き込まれてしまった。というのが事実です。
 警察は謝った。
警察はその非を認め謝罪しました。この事は警察の威信を落としたことにあらず、却って警察の正義を感じるものとなりました。
 信濃毎日新聞は社の姿勢として、“明確に謝らなかった”だけのことです。
県民の感じ方は、やはり不満の方が大きかったのではないでしょうか。 目に見えることでしか県民は判断できません。警察は目に見える形で謝罪したからこそであり、信濃毎日新聞社にはそれがなかっただけのことです。                              平成28年12月20日

 飯田支社
 父親の事故を飲酒運転と報道したり、山内村長を補助金不正受給と決め付け失脚させたり、このような犯罪にも近い事を平然と行った信濃毎日新聞は、本当に左寄りなのでしょうか!?
 岡庭一雄や熊谷時雄との繋がりは正真正銘の事実。
長野県全体で考えてみますと、どうもそうでは無いような気がします。何度も書いた通り、正当な保守系新聞社です。
たとえ朝日新聞との繋がりがあったにせよ、左寄りに偏っているとは思えない。その証拠に、田中康夫への攻撃があります。また、田中康夫には、ありがた迷惑の共産党が着いていたことも事実である。また、たとえ左寄りであったにしても、県民にその方向は断じて否定するでしょう。
 飯田支社の暴走と決め付ける。
このサイトを信濃毎日新聞飯田支社の幹部クラスは見ているという。そして善後策を練っているとも聞こえてきました。(正しい社員はどこの会社のも居ますよ)
しかし、本社には届いていないのでは?とも聞きました。また、届いていたにしてもこのような過去があり、それが表に出てしまえば飯田支社の暴走としてしまうでしょう。      平成28年12月22日

緊急速報                                 阿智村議会最終日速報

12月22日、阿智村議会最終日一般質問にて、新人の白沢議員・吉川議員、三期目の勝野議員が 私の公開質問状の取り扱いについて質問をしました。
良識と常識を持ち合わせた清廉な議員の行動において議会運営が正常されることになります。
岡庭一雄を党首とする阿智村共産党に支配されていた議会及び議会議員から、民主主義を取り戻す大きな前進になりました。
この事により、熊谷村長は阿智村行政の責任者として、法律に基づき執行するものでしょう。

告発                                         捜査機関

 飯田支社のみが左より
 冒頭に書きましたが、『共産党員はどこにも居る』と、いうことではないでしょうか。 特に、飯田支社の幹部クラスに長年居たのではないか?・・と私は思っています。
 それであれば・・
全てのことにつじつまが合ってきます。 邪魔者は消せ! この一言が全てのことに繋がっており、彼等行動派の理念なのでしょう。
 全てがお仲間なのでは?
この30年間、彼等の隠された目的の中で、『その通り』進んでいく恐ろしさを感じていました。 報道の怖さは嫌というほど、人生を狂わされるほど味わいました。         平成28年12月24日

 隠された疑惑を証明するには
 証拠があれば全てを明らかにすることは出来るでしょう。しかし、このような謀略を暴き出すことは出来るかも知れませんが、それを犯罪だとして、または、犯罪だったとして確定することは不可能でしょう。
 巧妙なやり口なのか?
それはけしてそうではありません。党員は共産主義なのですから至って簡単です。偏った人達が行うことは社会の中ではどうしても異質に見えてしまいます。それが見えていても、“明らかに出来ない”ということなのです。
 社会の矛盾なのです。
行政の長が偏った人でした。しかし、行政の長として私たちが選んだのです。その選ばれし人が行う行政は正しいとしなければ成りません。そこに勇気を持って挑めば、万人から非難を受けることも当然でしょう。
 信濃毎日新聞飯田支社に偏った人がいました。しかし、それは不正でも何でもありません。この人は、“報道の自由”、“社会の正義”として一方的に知らしめてくれます。気に入らなければ購読しなければ良いだけです。その様に開き直るんではありませんか?河野さんへの偽りの報道に謝罪しない姿がそこにあるのではないでしょうか。                       平成28年12月27日

 今回のことを報道しない理由
 信濃毎日新聞には公開質問状の、『素案』を渡しました。その素案にはもう少し過激な文面も書かれています。 これは正直私の策略です。
 反応を確かめる。
信濃毎日新聞と岡庭達共産党との関わり合いを、“私は知っていますよ!”、 “それは事実でしょ!”  と、互いが認識する必要性が有ると考えたからであります。 もし、私だけの“思い込み”であれば、新聞社ともあろう者は黙っていないでしょう。それも、赤旗に次ぐ最も攻撃的な新聞社ですからね。
 それが黙りを決め込んだ。
「私を攻撃できないだろう」とも、思っていました。なぜならば、公開質問状に書き記した質問事項の裏にある “真実” を私に知られている!?と、判断するだろうと考えたからです。
 やはりその通りでした。
偏った人達が信濃毎日新聞飯田支社に居る。との私の思いは、楽観的にさえさせてくれました。 簡単なことです。彼等の考えは一方的、子供をあやすより容易いことです。      平成28年12月29日

 先を読む
 目論見通りと感じたのは最初の電話です。 公開質問状の下書きを新人記者に渡した。新人記者は内容を見ても何も分らない、であれば、その下書きはそれべしの人に(上司)渡る。
 何故新人記者に渡したのかは、直接上司に渡せば、『もみ消される』危険性を避けるためと、上司がその当時の記者である可能性もある!?と考えたからで、間違いなく下書きを受け取らせる方法でした。
 新人記者にはどう伝えたのか。
「私は阿智村の議会に公開質問状を出そうとしています。経験が少ないので、質問する内容も書き方もこれで良いか分りません。ぜひ、見ていただければと思います。」 この様に伝えましたから、新人記者は親切に「私も初めてなので上司に見てもらいます。」との受け応え、二三日待っていても電話が来なかったので電話しました。
 その電話を受け取ったのが、阿智村担当記者であったかと。(新人記者が、阿智担当が私の上司です。)
 新人記者の名前を言いましたが、「どちら様ですか?」から始まり、「今出ています。戻りはいつになるか分りません・・」で、終わりました。 この時、ハッキリと分りました。 ああ、この人だ、この人が阿智担当記者で、今まで関わり合ってきた記者だな? とね。       平成28年12月31日

 根拠はあります
 電話口に出た人の受け答えが不自然でした。声のトーンといい、口振りといい、まるで待ち構えていたような感じでした。 ・・これで互いが認識した。
 相手は新聞社です。
通常の人であれば、新聞社を敵に回さない方が良いと考えるでしょう。新聞社は正しいことを報道するし、意図的な記事も無いと思っていますからね。 でも私は全く逆でした。信濃毎日新聞だけは、信用に値する新聞社では無い!と、強く心に刻みつけていたからです。
 過去現在の首長に聞いてご覧なさい。
殆どの方が、「信濃毎日新聞だけには気をつけろ!」と、言うと思いますよ。それは何故かと聞けば、私のように、「信用していない!」と答えるでしょう。              平成29年1月2日

 田舎新聞
 飯田下伊那の報道機関は、各新聞社ごと同じレベルで存在していません。 力関係とでも言いましょうか、この様な田舎であれば力の入れ方との表現が分かりやすいかも知れません。
 君臨しているのは信濃毎日新聞です。
それは飯田支社があることも事実ですが、なんと言っても県下一の購買率です。 現在、66%くらいではないでしょうか。日本全国でも県内紙がトップであるのは数県で、信毎は1,2位を争うほどではないでしょうか。
 その事が驕りに繋がっている。
信越放送を抱え、全国紙の朝日新聞と提携をしていれば、“その様に” 成ってしまうんでしょう。 普通の社員であれば、また、正義感に燃える記者が居れば、その事は、“誇り” と成り得ることなんでしょうが。
 一部の偏った人達はどこにでも居る。
たった一部のその様な人達が、僅か数人が、信濃毎日新聞という名も在る実績も在る報道機関を、その様なイメージにさせているのではないでしょうか。                平成29年1月4日

 その他の新聞社
 購買率順位ではありませんが、左よりな朝日新聞についてです。 全国紙ですから、飯田についてだけの見解です。
飯田では、朝日新聞社飯田通信局となっています。記者が一人居るだけの松本支局連絡局なんですね。
 たった一人の記者であっても。
ベテランの記者でした。それに、当然かも知れませんが、全国紙の記者と同レベルの見識と対応力を感じました。
公開質問状を見てもらったときは感情的に成られたようですが、時が経つにつれ、また、10年前の公開質問状に対応してくれた当時の記者の話しなどで、今回のことの重大性も理解してもらえました。
 中日新聞と読売新聞
中日新聞は名古屋に近いせいか、飯田市には地域密着した報道機関となっています。ホームニュースの発行をみてもそれが感じられますが、どちらかというと娯楽紙的な要素の方が大きく感じてしまいます。
公開質問状の対応に於いても若い記者感覚だったからかもしれませんが、通り一遍の受け答えであり、肝心な不正や犯罪をその文書から読み取ることは無理でした。
 読売新聞はただの新聞、中日に対向するだけの新聞社です。それは、渡辺恒雄の言動を見ていればお分かりかと思います。TV欄で十分でしょう。                   平成29年1月6日

 南信州
 ここは皆さんが思っている通りでよろしいかと思います。 記者は地元の人ですから、信用も信頼も出来るのではないでしょうか。 ただ、最近の紙面で、“この事は?” と、疑問に感じたことが有ります。
 天皇陛下来村の記事です。
阿智村で出迎えたのが熊谷村長と高坂前議長でした。 その事を掲載した中に、熊谷村長の感激の言葉が紹介されておりました。そこまでは何も気になりませんでしたが、問題はそれに続いた高坂前議長のコメント記事のことです。
 なぜ? 掲載したのか。
ん?何だこの記事は! そう感じた方は多かったと思います。 そこには、高坂前議長の、“考え方” が書かれていました。 陛下が満蒙開拓平和記念館に来る事に関してです。
 誰しもが、天皇陛下がお見えになる! この嬉しさと、阿智村に来る、リンゴ並木にまた来てくれる、天竜峡にも、この様に喜んでいるからこそ熊谷村長は、ただただその嬉しさを口にしているだけであり、陛下の考えを口にするなんてことは考えもつかない事であろうと思います。  平成29年1月8日

 なのにここぞと言わんばかしに口にした。
恐れ多くも なんて露ほどもない人達だから口にできる、ここぞと言わんばかしに自分たちの考えを伝える。

 何故掲載したのか
 TVでは、熊谷村長がホテルの前で出迎えた様子が放映されていました。 南信州は、村長と議長が出迎えたまでの記事に、村長と議長までのコメントを掲載した。
 議長のコメントを何故掲載したのか?
南信州は私の公開質問状の件は掲載できないと言いました。私のサイトの広告も出来ないと断られました。 その返答は、「名指ししている人達に名誉毀損で訴えられるから。」でした。
 百歩譲っても理解できない。
その時に、公開質問状が出されただけでも記事にしてもらえませんか?とお願いしても、断られました。 平成29年1月10日

 髙坂前議長は共産党
 南信州もこのサイトを見ています。そしていつか来る・・事に備えてもいるでしょう。 だからして、髙坂前議長は共産党だよとしている私の考えも知っています。
 問題はそこからです。
阿智村の村長と議長が出迎えた。 そこまでは良いと思います。その後に熊谷村長の感想を記事にした。その感想の中身は、ただただ感激の言葉です。
 髙坂前議長は何を言ったか!?
自分の考えで陛下に言及した! 内容は正しく共産党員でなければ考えもつかないことです。 普通の人なら言わない言葉です。                           平成29年1月12日
 
 記者は何を思う
 髙坂前議長がどのような発言をしても、其処には民主主義の “発言の自由”があります。(共産党員は自由で良いですね、共産主義を主張し民主主義を否定しているのに民主主義に守られているんですからね)
 南信州も報道機関?
南信州は髙坂前議長になぜ取材したのでしょうか? 陛下出迎えを記事にするなら熊谷村長一人で十分なはずだし、発言もそれに相応しい内容なのに、また、髙坂前議長は共産党員と知っているわけですからね。
 私はこの取材に疑問を禁じ得ません。
「二人が出迎えたから二人に聞いたんです。」と言われるのならば、髙坂前議長のこの発言を聞いて記者は何を思ったのでしょうか? 何も感じなかったのでしょうか? 感じたから記事にしたのでしょうか? それともこれも、『報道の自由』と、言われるのでしょうか         平成29年1月14日

 何か意図があるのか
 私の考え方に問題が有るのでしょうか? 南信州の記事を見て、そこまで考えるのは “普通”ではない! なのでしょうか。
 皇室番組を見て育った。
象徴天皇として国民に深く尊敬されている陛下について、そのお心をはかり知るには陛下自らの言葉であったり、その放映される姿でありました。
 それ以上何が必要でしょう。
多くの国民はおそらく同じような思いではないでしょうか。 この記事を見て、この様な疑問を持たれた方はきっと多くいたと思いますよ。                      平成29年1月16日

 記者は偏っている人
 こう書けば、きっとこの様に判断する人はいる! と、記者ならば当然その様な思いで普段から書いているのでしょう。 こんな事は推察するまでもないことですが、敢えて記事にするには大いにうかつだったのではないか。 なぜならば、全国紙でも書かない分野に踏み込んでしまったからに他ならない。
 生前退位を見れば分かりそうなもの。
政府でさえ、言葉を選び慎重に事を見守る姿勢しか見せていない。天皇陛下なのだから当たり前のことである。 たとえ田舎の新聞であっても陛下の考えを推し量るような記事を掲載すれば、読者はどう思うのかなんて事は当たり前に判断できていたことだ。               平成29年1月18日
 
 前にも書いたが、南信州はこのサイトを常時見ており全てを知っています。ですから、共産党員議長と知っている事は当然であり、且つ、共産党員の議長なら、“この様な発言”をするだろうと聞く前から十分に考えられるわけである。

 赤い人達の代弁者か
 天皇陛下が満蒙開拓記念館にお見えになるとういことは、遅くても半年前からその準備に入っているものであります。 当然の如く、長野県警には真っ先に知らされるもので有り、完全な警護が確立できるとされなければ実施に進めません。
 新聞社が一番最後。
阿智村にその事が知らされたのは、完全な状況・状態が確立できてからのことであり、そこから新聞社が初めて情報を得ているのです。
 阿智村はいつ知らされたのでしょう。
わずか1ヶ月余り前です。 安倍知事であっても阿智村の少し前でしょう。 そして、新聞社が最後に成ると言うことは、新聞社には一番最後に、それも阿智村から聞こえてきた・・その程度と言うことです。
 完全な警護を考えるなら。
情報には細心の注意を払うことは当然です。 信濃毎日新聞飯田支社と朝日新聞に任せておけば良いことなのに、阿智村滞在中にこの様な記事を掲載したことを警察庁にどう捉えられたか!?
 南信州さん、深刻に考えた方がよろしいですよ! 警護に終わりはありません。  平成29年1月20日

 
 完全な警護とは
 日本人の歴史的な考え方は、“神の国” ではないでしょうか。 萬の神は神話として私たちの生活の中に根付いており、神を祭って一年を過ごし日々生きてきております。
 「日本人は日本という神の国の人で在る」そのような心の持ち方の象徴が陛下であり、その思いが強く日本人の根底にあるのではないでしょうか。
 警察庁は何を守るのでしょうか。
たしかに、陛下の身を守ることは警護の目に見えることです。 ですが、その対象は果たして実の危険性だけで有りますでしょうか。 
 右翼と呼ばれる人たち。
この人達の行動の元にあるものは、正しく陛下が日本の中心であるとしている事です。 攻撃的に見えますね、でも何に対して攻撃的なのでしょう。
 連合赤軍を覚えていますか?
この人たちはどの様な思想から始まったのでしょう。 信じられないような攻撃的な行動を実際に起こしています。
 右翼と赤い思想組織  相反する両極限です。 私は日本人として、“神話の国” の人で在り続けたい 平成29年1月22日

 阿智村の警護
 陛下がお見えになると知らされると同時に多くの警察官が阿智村に来たと聞きました。 陛下が阿智村に来られることは驚きと共に感激するもので有りましたが、多くの警察官が来ているとの事はさして気にもなりませんでした。
 驚きどころか怒りが!
驚くべきコメントが寄せられた事を覚えておられますか? このコーナー10月21日 猿田彦さんのコメントです。

先日満蒙記念館辺り散歩している人の話ですが、岡庭元村長熊谷元議長羽場先生らが記念館で会合を何度もしているとの話聞きました。 まさか陛下が来る施設で 謀 しているとはビックリ 満蒙記念館には似合わないトリオ 残念です。

 このコメントを見て愕然となりました。 10月21日といえば、陛下がお見えになると知らされてから暫く後の日付です。 私が公開質問状を出してから事が公になりましたから、その頃から利用していたんでしょう。
 考えてみて下さい、こんな事あり得ることでしょうか!?
赤い人達が自分たちの行った不正行為の善後策を、陛下がお見えになる施設で行っていたんですよ。
これだけで犯罪じゃないですか! 警護警察は何をやっていたんでしょう、この情報はこのサイトより先に警察は知らされていたんじゃないでしょうか?!・・・(この事もこれからです)平成29年1月24日

 私は、阿智村という行政団体で行われてきた多くの疑惑を事実の元に書き出しています。それは、阿智村の人に限らず多くの人に事実を知っていただきたいとの気持ちからです。
 この疑惑はやがて明らかにされるでしょうが、明らかにされてから皆さんは何を思うのでしょうか。
このサイトをご覧頂いている多くの皆さんは、疑惑が事実とされたらどのように成されるのでしょうか。

 名指ししてきた方々に忠告をいたします。
あなたたちの行った事は社会として許されるべきことではありません。あなたたちは決して反省しないでしょうが、あなたたちの家族の事を考えて下さい。
責任はあなたたちでは取れなくなっています。 少しでも早く自首して下さい。 それが、あなたたち家族を守る唯一最後の方法です。                        平成29年1月26日

 悪い人は助けられない
 個人間でのもめ事や感情的な事が切っ掛けで犯罪まで起こしてしまった場合、犯罪とまでならないようにと、また、誤解であったとして許しあえる事もあるでしょう。 それが出来なく表佐多になって世間が知るようになっても、世間はその事情を個々で判断することでしょう。
 行政に於ける犯罪は?
行政が犯罪を犯す? 国は、行政の犯罪は起きない事、起こせない事として法律で行政を保護しています。 その結果、どの様な不正や犯罪であっても自治体の長がその様な法律処罰の対象と成っています。
 阿智村を例にとれば。
阿智村村長が犯罪を犯す事でなく村長個人の犯罪となり、阿智村議会が不正行為を働いたのではなく、議員個人が犯罪を犯したとされます。 そしてそれらの事は、決して許される事が出来ない法律と成っております。
 村民であっても、行政に関与する犯罪は決して許される事はありません。 残念ながら、行政に於いて感情ではどうする事も出来ません。
 ですから不正を起こさないようにと、不正と成らないようにと、20年も30年も忠告し、時には行動してきましたが、残念ながらこの様な阿智村になってしまいました。        平成29年1月28日

 警察はどう動くのか
 法律は国家存続の基本として制定されています。国を守るために法律があるのです。 国民を法律で守っているわけではない事を理解すべきです。 国民を守るのは憲法です。
 何のための直接選挙なのか!?
知事、市町村長、地方行政の長は全て直接選挙です。考えようによっては国民に責任を押しつけている事にも成ります。 行政業務は機能的に機械的に組み込まれており、扱う側にしか不良や不正は発生しない仕組みとなっております。
 警察は国家機関!
県であっても市町村であっても同列の地方公共団体です。 警察は国家機関です。 不正は犯罪です。それが表に出れば、告発があろうが無かろうが、「警察はどう動くのか?」などという事は住民の知るところではなく、「警察は犯罪を取り締まる機関で在る!」という事を知るべしである。

 おかしな?法律の存在。
明治政府は、『公務員保護法』を成立させました。一見、行政業務を扱う公務員の倫理規則のような事も書かれていますから、取りようによっては必要な法律なのでしょう。 しかし、この法律が取り沙汰されるときは必ず行政業務の失敗においてです。                 平成29年1月30日

 甘えている公務員
 生え抜き という言葉をご存知でしょうか。 民間企業に於いてその言葉は多く用いられていますが、公務員からその様な言葉は聞こえてこない事に気づいた事は有りませんか?
 その言葉が現す人生には多くの人が生き様を感じる事が有りますが、公務員の人達には何も関係ない世界なのです。
 親方日の丸!
この言葉もよく使われますね、しかしこの言葉は公務員を揶揄すること、やっかみの言い回しです。
どうでしょう、世間は公務員をこのように見ている、そして公務員もこの様に思われていても、世間に対して「俺は公務員である」と誇りを持って言える人は殆んどいないと思いますよ。 平成29年2月1日

 公務員に多い共産党員
 企業で働いてきた人達から何度か聞いた話ですが、共産党員が入社すると仕事そっちのけで社内をかき回す事しかしないのだそうだ。 会社のために一生懸命働いている人達にとっては、「従業者の権利だ!組合だ!」何て叫んで、自分の事ばかし言っている者を相手にしたくなくても、日々それを叫ばれていれば自身の業務に支障が出てしまう。 ついては、会社自体への影響も
 非生産性
就業の中で権利なんて存在しない 働いて賃金を得るのであるから、権利自体が存在する事ではない。 賃金上げろ! なんて叫んでも、対価に見合っていれば個人の問題である。
 民間企業では、会社と社員が責任の中で成り立っている。 互いに責任を持つことこそが生産性であり、平等な社会形成の基本あることです。
 行政に携わる人達
常々不思議に思っている、何故公務員が必要なのか? 行政業務の失敗において公務員は責任を追及されないとする法律まである。 そうまでして何故?必要なのか。
 責任を追及されない、責任を取らない公務員は、民間企業の社員よりはるか下の人達ではないか。 平成29年2月3日

 公務員は対価を求められていない
 公務員は責任を取る必要がない! と解釈している公務員が多いことが嘆かわしい。 公務員保護法の原点は、建設的な行政業務の遂行に於いて結果的に思うような成果が上がらなかった責任は問われない。としているだけであり、行政業務の取り扱いに不正が有った場合にはこの法は何も通用しないどころか、個人の犯罪として刑事訴訟法にて裁かれることになるのです。
 村長と職員の関係。
岡庭村政に於いて幾つかの不正を指摘しています、それは熊谷村長に告発しました。 熊谷村長はその不正を調べ上げ、それべしの機関に告発していることでしょう。 それは村長の義務です。
 熊谷村長が行える範囲
不正調査は村長がやるべき事ですが、今回私が指摘した岡庭氏の村長時の不正はほんの一部です。私の指摘した不正のうち犯罪と成る部分は捜査機関に告発しているでしょう。      平成29年2月5日

 職員の不正
職員から犯罪者を出したくないと考えるのは感情としては理解されますが、行政に於いては許されることではありません。
 岡庭一雄氏の狡さと汚いところ
職組を共産党系にした事が最大の問題であります。 議会まで手中に収めたのですから何も怖いものは無い、職員を手なずけるのは朝飯前であった。
 確かに異常に多くの党員職員は居ました。阿智村の歴史的な過去があるからでしょうが、岡庭一雄氏の様な攻撃的な党員は少なくありました。 だがしかし、課長局長に同類の党員を配置して指揮系統を押さえれば、どの様な事も難無く達成できる体制と成ります。
 向かうところ敵無し!
我が世の春を満喫していました。行政的な失敗であっても責める議員は皆無、国のお金に穴を開けても全体の中で隠してしまう。 窮地に陥れば、子飼いの参事まで切ってしまう冷血さまでありました。        平成29年2月7日

 村民は羊である
 元々村政を気にして生活している村民は殆どいないと思います。 黒柳村長の時代は安心しきっていましたからね、それが長く続いたせいかもしれないが、村政で不正や犯罪など存在しないとして頭の隅にも無かったのでしょう。
 岡庭一雄氏のずる賢さ。
彼はその様な風潮を敏感に感じ取っており(その感覚は党員ならではのものでしょう)、村民には一方的に見せられる情報だけを発信していけば良いとしました。
 村民たより
この言葉こそ共産党の最も得意とするところです。 そんなコマーシャルを見せられて、村民は以前と同じように安心していたのでしょう。                      平成29年2月9日

 自治協議会の設置
 村民にとっては真新しい言葉に聞こえました。 岡庭村長が発案した新たな行政と地区の形などとして、見当違いをする村民も多くいたと思います。
 これが田舎の怖いところです。
元々ある地区組織、それは “区” であり、“常会” であります。そしてそれは今も自治会と並行して進められています。
 村が言っているんだから良いこと、村がやることだからそれで良いんだ。 として、自治協議会がさも正当な地区組織なのだ、これからは区や常会が行ってきた事を担い、村が責任を持ってそれらの組織と切り替えるのだ!
この程度での受け止め方しか出来ないのが実情で有りました。
 智里西ではもっと複雑になりました。
それは、智里西に於いてはすでに自治会が自然発生していたからです。       平成29年2月11日

 西の自治会とは
 西地区の常会は部落会と呼ばれ、財産区が元にあります。 園原部落は園原財産区(共有山)、本谷財産区は農間部落戸沢部落、横川部落は横川財産区でした。(中央部落は昭和の初めに上の平が元に成って出来ている。向部落は木地屋であり、財産区ではない)
 昭和の時代
地区は園原と本谷と呼ばれ別々の区として成り立っていましたが、火災によって消滅した学校を双方の区がお金を出し合って建設したことから、主に学校行事において両区として活動してきました。
横川部落と横川学校は会地村に属しており、学校復興に参加していない。
 部落長会議
園原部落、農間部落、中央部落、戸沢部落(向含む)の各部落長が連絡会議として設けたのが自治会でした。(横川部落は含まれていない) その活動が長く続いたために、阿智村の設置する自治協議会と混同してしまう人が多く出てしまい、それが今に続いている。 その混乱に任せ利用してきたのが熊谷時雄であり、叔父である。                           平成29年2月13日

 自治協議会と阿智村の混乱
 阿智村で言うところの自治協議会は岡庭一雄が発案した組織つくりでありました。 岡庭一雄の考えた自治協議会は地方自治法に基づく地域自治協議会で無く、共産党会議で培った赤い思想に基づく組織つくりでした。
 それに気づく者は誰もいない。
共産党員が村長に成ったのですから当たり前のことではないですか。それでなくても、「自治協議会って何なのだ?」と考えて調べれば、「うん、これは違うな」と気づくはずです。 どちらにしても行政に関心を持たない住民ばかしですからやむを得ないですが。
(今からでも遅くないですよ! インターネットで、『地方自治法 地縁団体』と検索してみて下さい。)
 熊谷時雄君はおバカ
この人は勉強することが出来ない人です。勉強が出来なかった事もありますが、自治協議会が何たるかも調べずして(当時の議員みなさんもそうでしたよ。誰も理解していません) 西地区の自治協議会設置において、自分の考えだけで作り上げてしまいました。             平成29年2月15日

 姑息な時雄君の手法
 彼のずる賢さは見透かしていましたから “きっとこうするだろう” と、思っていました。それは、私抜きで進めることです。
 受け皿組織を作る
一見、不思議に思いませんか? 阿智村が進める自治協議会の施行、阿智村が各部落に直接説明して理解を求めていくものですよね、それを時雄君と叔父は、「西地区は自治会が既にある、村の言うところの自治協議会が西地区の考えに合っているかどうかを見極めなければならない。よって、各部落から1名づつ役員を選出して組織化する。」「横川部落は自治会に入っていない、横川は横川で対応することだ。」
 叔父の力を持ってすれば。
二人がこの様に声を上げれば誰も何も言えないし、何が何だか分からない程度ですから、「そうなんだ」に成ってしまったと言うことです。                     平成29年2月17日

 その先まで決めていた
 なぜそんな事をしたのか? 疑問に持たれる方は常識があり、党員の人たちにとってはこれもまた当たりまえの手法なんですね。
 各部落役員まで決められていた。
ここまでの根回しは西の人達では考えもつかない事です。 でも党員で有れば当たりまえの事なんではないでしょうか。 私以外に操氏・時雄氏・叔父に逆らうものは誰一人いませんから(これは今もって全く同じです) この様な根回しは、対私 でありました。 「園原の役員は・・・になりました。」 部落会では報告だけで有りました。
 西独自の自治会、会長は時雄君
策を弄し、叔父に擦り寄り、この時は自治会長で有りました。 西地区の自主的自治会は時雄君が一切の事を決めて居りました。 当時の自治会は横川部落が別でしたから100戸余り、会費は一戸12,000円でありましたから、隣組を基とした部落会(常会)と肩を並べる力を持たせ、「部落会が有るのになんでこんなに金を取るんだ!」の不平も聞く耳は当然のごとく無視しておりました。  平成29年2月19日

 なぜこんな自治会を叔父と時雄君はつくったのか?
 西地区独自の自治会は、横川部落を除く園原・農間・中央・戸沢の部落長の集まりとして始めております。 当初は連絡会議程度で始めておりますが、実態は 「対、園原」でした。
 何処の地区でも区会があると思います。その区は、財産区が元になって今に続いています。 西地区も同じように本谷財産区と園原財産区の二つの財産区が存在しています。そして、その二つの財産区は互いに協力し合って進めて参りました。
 二人の思惑
叔父は戸沢部落で時雄君は農間部落、二人は本谷財産区、私と操氏は園原財産区です。 熊谷操氏は園原財産区の村会議員です。 本谷財産区は叔父の親、渋谷勲が本谷財産区の村会議員でした。
 人口が少なく、渋谷勲の時代は両区の代表としました。渋谷勲の後継として熊谷操氏が議員となりましたが、叔父や時雄君にとっては政敵でありました。
 両財産区は別々の財産区
二人の意見や考えは本谷財産区の中で無ければ通用しない。 この事が二人にとって致命傷でした。 戸沢・中央・農間の各部落で本谷財産区を構成していましたし、けして各部落間の仲が良かったわけではありません。                                 平成29年2月21日

 もめ事は何処でも有るが
 有ってはいけない行政にももめ事は有りますね。 そのもめ事を解決する人は往々にして行政側の人間であります。 また、もめ事を起こそうと考え実行する人達が社会に存在します。 そういう人の多くは赤いものを身にまとっているでしょう。
 叔父は共産党員で無いが。
朱に染まれば赤くなり、知らぬうちに視野が狭くなり、純白もグレーに見えてしまいます。 欲で繋がるとそこが起点と成ってしまう。
 昔のことを言いますが。
どの様な事に対しても、人の上に立つ人はそれなりの人格者で有りました。人格者というものは、私利私欲で物事を判断しない人で在るからして人格者なのですが、時雄君はまったく持ってその正反対の人間です。 そのうえ赤黒いのですから始末に負えません。
 20年前は押さえる人がいました。
この様な人間でも頭が上がらない人がいた頃は、まだまだ抑えが効きましたが、不幸にも一世代違うのと、また若くして他界したせいもあり、誰にも手が着かなくなりました。
 叔父は実績者でした。
苦労して一つの事業を成し遂げ、地区でもそれなりの発言権を持っていましたが、残念ながらお金に振り回されてしまいました。 時雄君と同じ色に見られていたことに気づく筈もありませんでした。

時雄君は常に自分の足場をつくってきました。 野心が在り、土台が何も無い人には当然でしょうが、それが見え見えで、私はとっくに見透かしていました。 ですから、叔父に何度も注進したのです。
 この様な時雄君のために、独自の自治会組織をつくり、時雄君が自治会長となっていったのです。  平成29年2月23日

 議員への布石
 起業する、それを成功させるにはある程度の市場がベースにないと不可能に近いことです。 特に山ばかしの僻地では内容も限られてしまいます。
 叔父は自力でつくりあげた。
釣り堀事業を成功させ、かつ、戸沢部落全体が参加できるような誘客施設までつくりあげてきました。それが、何もないこの地区の礎になったことは掛け替えのない事実です。
 どこで間違ってしまったのか?
本当に、どうしてこうなってしまったのでしょうか。 私にはハッキリ分かっています。そして西地区のみなさんにも、はるか昔から分かっていました。
 叔父が議員となるだろう。 今から30年前、周りはそう見ていましたから、時雄君にとっては、実は一番のたんこぶが叔父でした。 岡庭氏と時雄君は考えました。
 叔父は実業家。
釣り堀を成功させたことは叔父自身にもその可能性を資質を認めるものでありましたから、そこを目標とすることは男として当然でしょう。そこをくすぐれば、時雄君には目が出てきます。平成29年2月25日

 共産主義の恐ろしさ
 共産党員の全員が同じ考えで無いことはどなたにも分かっていると思いますので、要点だけを書き出します。
 自分のことだけを考える人は何処にも居ります。その人達がまず最初に考えることは、“人の上に立つ” 事であります。 会社でもそうでしょう、団体でもそうでしょう。上に立てば自分の考えを達成する近道となります。
 本当に怖いこと
会社でも、団体でも、自分のことだけを考えている人が上に立つことはあり得ませんし、また、万が一そうなってしまっても、必ず失脚してきたことでしょう。
 同じ考えの人達ではどうなんでしょうか? 宗教団体もそうかも知れません、同じ考えを持つ、同じ思想を持つ人達の上に立てば、それは正しく旗印と成ってしまいます。
 共産主義の人が社会の頂点に立つ!
民主主義の日本の国で、行政の長に、議会の長に共産主義を唱える人が任に着くということはあり得ません。
岡庭一雄が村長に成り、熊谷時雄が議長になったその日から、阿智村は共産党の村と成ってしまいました。平成29年2月27日

 阿智村を共産党の村にする
 吉田博美参議院議員が一番の罪だと、私は思います。 彼が共産党員をスポンサーとしたことから始まった悲劇です。 この事により、共産党員が支配する赤い村となり、日本国の財産が共産主義を唱える人達に流れました。
 その赤い村が、国家の資金を使って “阿智村リニア社会環境アセスメント” を作成し、国家事業であるリニア中央新幹線の開発事業を妨害していることは、正しく国家に対する反逆行為そのものであります。

 どの様な内容あるものを作成しても、それを元にどの様な理想論を唱えても、それを元にJRに意見を突きつけたにしても、その根本に不正や犯罪があれば、それら一連の行動全てが犯罪と成ってしまい。 その犯罪こそが、“一番重い罪” で有ることを知るべしでしょう。       平成29年3月1日

 私が阿智村議会議員の皆様に公開質問状を提出し、各報道機関にこの事実を突きつけた日から、信濃毎日新聞や、朝日新聞はこの大きな犯罪に気づき、いつか必ず来る正義の結果に対し、言い訳が出来るような動きに変わっています。

 気づかない報道機関
 阿智村議会議員に提出した公開質問状を私の事務所で見た、朝日新聞・中日新聞・南信州の記事にしなかった理由はそれぞれ違います。 朝日新聞の記者は流石に理解したようです。(この質問内容全てが犯罪を指摘していると)
 中日新聞と南信州
中日新聞は記者が女の子ですから、「名誉毀損になります」 程度なのは仕方ない。酷いのは南信州です。 女の子より酷い。たとえ田舎新聞としても、町内会内覧程度では目も当てられない。 何度かのやり取りでその深さが分かったかも知れないが、その程度で逃げ出してしまった。 もうこれは、新聞社を名乗る資格がないですね。
 信濃毎日新聞と朝日新聞は、逃げているんではない。
このサイトの読者はとうに理解できていると思いますが、信濃毎日新聞は隠れているのです。朝日新聞はそんな信毎と関係が深すぎて、黙しているのです。
 南信州は単に逃げているだけ
私が名誉毀損で訴えられる事があっても、南信州が「名誉毀損で訴えられます~」なんて、女の泣き言のようなことを言っては情けなさ過ぎますよ!
 南信州が、『阿智村議会議員に公開質問状が出された!』と、たった一行掲載していれば、ここまで長引く事はなかったこと、それと、ここまで多くの人を巻き込んで、あまつさえ、多くの犯罪と思しきことを重ねてしまったことの責任は、南信州新聞、あなた方と、私は考えています。
 私は何度もお願いしました。
「たった一行で良いから・・それであれば貴社が名誉毀損で訴えられることはないと認識しているんですから掲載して下さい。」と、「私のWebサイトの広告を掲載して下さい。Webサイトを開設しました!だけで良いので・・」
 これらのことを全て無碍もなく拒否した南信州の、社会的責任を私はとことん追求します。

(南信州は阿智村議会を傍聴しており、全ての状況が飲み込めています。そして、警察が動いている!と、親しい人に記者は公言しています・・・私はどうしたらよいのでしょうか?)  平成29年3月3日

 阿智村自治協議会は不適
 阿智村を含め長野県中の住民の皆さんにお聞きします! 「自治協議会って何でしょうか?」
ネットでその様に検索すれば、答は出てくるでしょう。それと同時に、ぼんやりした、理解出来ない “何か” も感じるのではないでしょうか。
 地方自治体の都合
自治協議会設置の必要性を説くサイトは数々あれど、自治協議会とは何なのか? 自治体はなぜ自治協議会を進めるのか? というような疑問に答えてくれるサイトは殆んどありません。
 自治協議会を設置してみたが
市では自治協議会に入らない住民が多くなっており、村部では既に自治協議会は不要として自治体に廃止を届け出た地区も出ています。
 長野県が、各地方自治体が進めてきた自治協議会制度そのものに、今大きな疑問が生まれてきています。
県会議員も市会議員も(町村会議員では次元的に無理)、自治協議会って何だろう、必要なものなのか? と、その様な考えを持って取り組まなかった、“つけ” が、今回ってきたのです。平成29年3月5日

 町村会議員が気付いていないお粗末さ
 飯田市の自治会制度は比較的スムーズに経過しており、市民の受け入れもまあまあ出来ていると思います。 ですが、自治協議会そのものを理解しておられる方は殆どいないのではないでしょうか。
 飯田市のバランス
町内会(常会) 従来の町内会のまま自治会を受け入れている地区は混乱はないでしょう。それは自治会費を集金していないためです。
区会がある地区 区会とは別に自治協議会を設置している地区は、区費と自治協議会費の両方を集金しています。
山間地区ではまた違う受け止め方が存在しています。 飯田市自治会は、アンバランスになっているのが現状です。
 阿智村自治会は?
飯田市は10年も前に施行されていた阿智村自治協議会を参考としたのでしょうか? 阿智村と同じ自治協議会なのでしょうか? ・・
 まったく参考の次元でなく、飯田市に限らず各町村も、地方自治体が持つ地方交付税のやり繰り方法論から成る自治協議会を設置しました。 ですから、阿智村自治協議会は市町村が進めた自治協議会では無いのです。                                平成29年3月7日

 岡庭一雄共産党村長
 飯田市自治会のことはいずれ飯田市のコーナーへ書いていきます。
岡庭一雄が村長となったとき、まだ議員任期は二年残っておりました。 その二年間は殊勝な村長としておりましたが、議員選改選前から “赤黒い本性” が、“赤い謀略” が出始めました。
 赤い村への布石
当面の目的は熊谷時雄を村会議員とすることでした。 私の父が再選するとの状況が揺るぎないものと成っていましたから、父がいる限り議会を思い通り動かせないことが一番のネッグであったからです。
 父の力を削ぐことは、議会の力を殺ぐこと
父に限らず、議員の力を殺ぐことは簡単なことです。 皆さんもお分かりでしょ! 地区代表議員で無くせば良い事ですね。 共産党議員をご覧なさい、未だかつて、「消費税云々!」「戦争反対!」「リニア反対!」と、スローガンを唱えているだけであり、村のことなんか、地区のことなんかは置き去りにしているでしょ。
 阿智村の共産党を名乗っている原議員の他、名乗りもせずに議長に就いた髙坂議員、この二人、何か地区のために、地区の代表として何かやっていますか?

 この二人、地区どころか村のこともやらずに、岡庭一雄と熊谷時雄の行ってきた不正を隠しているだけではありませんか!! 村民の皆様、いつまで彼等共産党の愚行と暴挙を許しておくのでしょう。
 このままでは、阿智村は無くなってしまいます。 今こそ立ち上がらなくては成らず、黙って傍観していては、彼等と同じ人間と成ってしまいます。                 平成29年3月9

 岡庭一雄の自治協議会
 議員に成っても部落長をやり、尚且つ自治会(以前)の会計をやって公金を受け取っているのですから、時雄君のやり方はデタラメそのもの、そこへ持って岡庭一雄は岡庭村長のための自治協議会を設置しました。
 時雄君を説得する岡庭村長
「時雄や、俺の考えてる自治会はあいつら議員の力を殺ぐためじゃないか、自治会を設置して自治会を窓口にすれば議員なんか何も言えなくなるじゃないか。あいつらは(議員)は我々共産党の議員と違い地区の代表なんだから、地区の声を自治会から上げればあいつらは用無しになるじゃないか。部落を自治会の下部組織にすれば自治会が部落を牛耳れるし、部落は嘱託員の窓口業務だけにすれば思い通りとなるだろう。」
 だから、そんな小銭を拾って今までの自治会にしがみついていちゃ駄目よ。

「いいか、俺はこれから村中を、この自治協議会を設置することにおいてコントロールできるんだ。議会だってそうだ、地元の声を届けれなくするんだから議員に成りたいなんて奴は出てこないよ。そうなれば、無投票を避けようと、我々共産党の仲間が、共産党を名乗らずして立候補できる。そうなれば議会だって俺のものに成るじゃないか! その時はどうだ? お前は議長様だ! あとは俺とお前で組んで、金儲けが出来るじゃないか。」                       平成29年3月11日

 どうだ時雄、俺の構想は
 なんともはや、恐ろしいことでありましょう。 この時代に、この様なたくらみが有るとは、共産党とはここまで恐ろしいものであったのか。(なぜ、この事に気づく人が居ないのか?)
 赤い村の始まり
自治協議会は行政側が進める地方交付税施策の一環である。 一方通行の行政施策は税金が中心で有るから、この様に取扱が成される?なんて考えていないからこう成るのでしょう。
 共産党がこれを見逃すはずがない。
何でもかんでも反対する共産主義の共産党が、庶民の味方だとして上げているスローガンが、「協働」である。
飯田下伊那の自治協議会、行政も、「協働」を前面に出しているのではありませんか?
 知らぬうちにこうなった??
共産党に取ってはこの上ない行政施策が、自治協議会 でありました。 正しく、共産党会議 そのものですから、扱い方によってはどうにでも成るでしょう。             平成29年3月13日

 そこに目を付けた岡庭一雄共産党員村長
 県内でも一二番ではなかったか? やはり共産党に掛かれば行政施策も何のその、いいように扱われてしまいます。
議員の力を殺ぎ、尚且つ村民をコントロールしたのですから大したものです。
 職組を共産党系にして全ての支配が出来上がりました。
赤い村の誕生です。 村民は誰一人気づかないが、村外では当然の如く気づく人が居りました。 そして口々に、「赤い村!」、「赤の村!」と罵ったのですが、彼等にとってはそれは最早、心地よい呼び名となっていたのです。

 自治会を壊す
 いま村内では、「岡庭と時雄を訴えろ!」とか「岡庭と時雄を警察に捕まえさせろ!」「早く警察に捕まって欲しい」との声が出てきています。
その様な声を上げておられる村民の皆様にお願いします。
 それでは解決しません。
結果だけを求めても何も残らないでしょう。 もしかしたら阿智村は無くなってしまうかも知れません。
いま私たち村民が行わなければ成らないことは、“修正” することです。
 一人一人が修正すること
自治協議会、岡庭一雄共産党員が作り上げたこの組織を作り直すことです。 自治会より大切な組織は何でしょう。町内会・常会・部落会ではありませんか!? 昔から続いている私たちの一番大切なこの組織を前面とし、査問機関である議会議員を、本当の地区代表議員をつくることではないでしょうか。              平成29年3月15日

 岡庭一雄と熊谷時雄は、社会が結果を出すでしょう。また、その様にしなければ成りません。

 本日、智里西自治協議会を壊します。
 いま、智里西自治協議会には多くの不正と犯罪が発生しております。そしてその全てに熊谷時雄が関与しています。
 長い間続いて来た。
熊谷時雄だけが逮捕されるのならそれで良いでしょう。だが、長い間続いて来た事により多くの共犯者が出てしまいました。 今月のうちに間違いを正せば、何人かは救うことが出来ます。

 阿智村住民の皆さん
自治協議会は必要ですか? 岡庭一雄がつくり上げた共産党会議ですよ! こんなもの、必要ですか!?
私は、私の責任において智里西自治協議会を壊し、解散します。その上で、熊谷時雄を刑事告訴します。平成29年3月17日

 平成29年3月17日午後7:30 自治協議会年度報告
 私は平成27年度と28年度の自治会部員でした。 都度の会議に置いて不正を指摘し、修正するよう促してきました。 時雄が怖いのかと思えばそうでない、時雄に巻き込まれている者もたしかにいましたがそうではない。
 簡単に言えば、馬鹿ばかしである。 常識で考えても分かることなのに、本当に分っていないのが現状でした。
 智里西自治協議会の不正と犯罪
五項目の不正と犯罪を書き出し配布しました。 そこには来年度会計役員とした熊谷時雄も居りました。
 誰も何も言わない、時雄が言い訳の言葉を口にした。「捜査機関に届けるなら好きにすればよい、お前も同罪だ」
『いまならいくつかは修正できます。何もしなかったら・・それは結果だけが出る事に成ります。その事を理解するように』 それだけを伝え、帰ってきました。
 自治会長から電話が来ました。
「章文さんダメだよ時雄は、「章文の文書を代議員会に掛けよ!」と言って最後の代議員会で話し合うようになっちゃったよ」 そうか、放っておけよ、これ以上あれには関わるな、それより自治協議会は村長が付設している団体であるから村長に相談しなさい。  
            平成29年3月19日

 緊急事態発生です! 目の前で犯罪が起きました。 この事は、21日議会一般質問が始まる前に書き出します。

 平成29年3月17日 午後5時 智里西、林業活動拠点施設(自治会利用)において事件が発生しました。

 熊谷村長が呼び付けられ、「月川旅館の指定管理者を外したことに抗議」と題されて関係者を集め、熊谷村長に詰問しました。 「平成元年に於けるリフレッシュモデル事業において、野熊の荘月川はその委託管理を受けてここまで来た。また、施設管理運営を受けるに渡って “負担金” も拠出して積み立ててきた。それは自分たちの権利であり、当時のことを何も知らない村長が一方的に指定管理者を外すとは何事だ」 この様な事を突きつけて、二時間にも渡って村長を拘束し、“翻意” するよう迫りました。

 なぜ指定管理者を外したのか?
 この事は、3月15日の議会全体協議会において、「脱税において国税局に入られた野熊の荘月川が指定管理者で有ることは許されない」として村長決議されています。
 それが野熊の荘月川会社に通達され、熊谷時雄が16日早朝役場に怒鳴り込んで「出てこい!」と3月17日、午後5時を指示したそうであります。

 出ていく必要は無い
 指定管理者を外すことは全体協議会に於いて承認されたうえで通達しており、それまでのものであります。 時雄に怒鳴り込まれても出て行く必要は無いのですが、「月川だけじゃない、パークランドもある、リフレッシュモデル事業全体の問題だ」と言われれば、そうでは無いと理解してもらわなければ成りません。       平成29年3月21日

 犯罪はこれだけじゃない
 さかのぼって書きますが、この騒動の直接的な発端は、「野熊の荘月川」という会社を指定管理者としたことから始まっております。 先日、熊谷義文議員が岡庭一雄が作成した文書を配布し、全体協議会において自身の意見考えとして発表し、「実は岡庭一雄に頼まれた」と、白状していますが、岡庭一雄は何を伝えようとしたのか? であります。
私はその文書を見ておりませんが、熊谷時雄・渋谷秀逸と岡庭一雄が最終手段としての “手” であったことは間違いありません。 二年前に「月川旅館施設は払い下げる」として渋谷秀逸に熊谷村長は伝えています。7,000万円を超える金額を「積み立て払戻金」として付与する事も決められていました。(この事は熊谷村長が決定したことでなく、そうなっているからそうしろ!との、誰かの指示でありました)
 公共施設は償却資産ではない
約束事として進められてきた払い下げに待ったを掛けたのが、他ならぬ渋谷秀逸であります。「払い下げを受ければ1,000万を超える取得税が掛かる、冗談じゃない。これから先も村の施設のままにせよ!」「村は25年も修理一つせず放ってきたからもう使い物にならん。お風呂も作り替えなきゃ成らん、7,500万ばかじゃ改修なんて出来ん。いくら掛かっても完全に直してから引き渡せ!」
 この様に、熊谷時雄と二人して熊谷村長を突き上げてきたのです。        平成29年3月23日

 忘れられない岡庭村政
 常識では考えられない、考えられないことです。 岡庭一雄・熊谷時雄・渋谷秀逸 この三人は余りに非常識なことを続けてきたために、麻痺していたのでしょうか? いや、そうでは無いでしょう。彼等にとっては当たり前の考え方なのでしょう。
 何もかも思い通り
仮橋の架け替えが決定事項なのですから、当然強き一辺倒でしょうね。 向かうところ敵無しで来たのですから、熊谷村長なんてどうにでも成ると踏んでいたんでしょうね。
 独りぼっちの熊谷村長
岡庭のレールに乗っている、岡庭の操り人形だ。 職員はおろか、世間もまんまその様に見ていました。ですから、阿智村の正しい住民は諦めていたんでしょうね。

 目を覚ませ! 阿智村の住民よ!
 今回の質問状により危機感を覚えた三人は、ありとあらゆる対抗策をしてきており、また次から次へと攻撃の手を緩めてこなかった。 しかし、私への攻撃は 皆無で有りました。   平成29年3月25日

緊急                     平成29年3月26日                     緊急
 明日27日、午前11時より臨時議会が開催されます。 議題は、「野熊の庄月川とパークランドの指定管理者解除についての成否」だそうであります。
熊谷村長は、指定管理契約期限満了と成る中で、「営利施設における指定管理者制度は不向き」として、両施設の指定管理者を解除することを決めました。 高坂議長は、「指定管理者をそのままに、両施設を改修した上で継続させよ」とし、「議会においてその成否を決めるべき」として臨時議会を開催することを独断にて決めた様であります。

 村長が指定管理を解除するとした理由は上記に示した通りで有りますが、私のサイトでも書きだしている通り “野熊の庄月川” は過去、国税局に脱税摘発されております。 岡庭村政がその事実を長い間不問に付してきた事は行政としての不整備事項と成っており、熊谷村長はやむを得ず決断しております。

 リフレッシュモデル事業のあらまし
昭和63年、黒柳村長の時にその事業は計画されました。 岡庭一雄はその事業計画そのものを章設計に依頼しました。
 岡庭一雄の指示
国庫補助を受けられるように決まった。事業費予算は事業計画書によって示されればよい。智里西地区にはインターチェンジが開設される、そこに焦点を合わせ戦略的な計画とせよ。 後は任せるから何でも図(書)いてくれ。

 章設計の事業計画
・戸沢周辺 釣り堀を中心とした集客施設 川向こうをアピールするモニュメント(番傘) 公衆便所
・農間、中央周辺  簡易宿泊施設 テニスコート
・園原  語り部の館 史跡遺跡を中心に案内センターの役割 営業施設でない 公衆便所
(設計図書は章設計に保管されている)
 パークランド  営業施設として戸沢部落内有志の参加による会社設立
 月川旅館    営業施設として運営会社を設立
 ふれあい館(門前屋) 営業施設でない、厨房を付設する予定  管理会社設立

 月川旅館運営会社設立  名称 園原の里開発株式会社
参加者  渋谷秀逸 熊谷智徳 熊谷時雄 熊谷章文  資本金一人250万 計1,000万円 株式会社
営業5年目に1,000万円の増資を行い2,000万円の供託株式会社と成る(一人当たり250万円の増資は配当金)

 役員会(株主総会含む)平成13年ごろまで毎年2回開催する 平成14年は1回のみ その後一度も開催されない
平成15年ころ国税局に脱税摘発されたようだ(熊谷智徳と熊谷章文は何も聞いていない)1,000万円を超える追徴課税があったようだ

 平成16年ころ園原の里開発株式会社は閉鎖されたようだ(熊谷智徳と熊谷章文は何も聞いていない)
野熊の庄月川という名称で新しい会社が設立され渋谷秀逸が社長 熊谷智徳と熊谷章文が役員みたいである
同時に園原の里開発株式会社の供託資本金は解約される 野熊の庄月川に1,000万円その金を供託したようだ
残りの1,000万円は減資として処分されたようだ

 平成26年頃熊谷智徳と熊谷章文の役員は解除されていたようだ 同時に二人の出資株500万円分は無くなっていたようだ(熊谷智徳には500万円が支払われた 本人に確認) 私の株は母親の名前である 母は平成24年に亡くなっているが相続していない
 平成26年ころに熊谷時雄が月川の社長になったと聞こえてきた 渋谷秀逸に確認したら 熊谷章文は役員でも株主でも無いと伝えられた

 リフレッシュモデル事業は100%の国庫補助金であります。負担金は一切有りません。 熊谷時雄は「2,000万円以上の負担金が有り、それを積立金として村に預けている」と言っているようでありますが、この事は、岡庭一雄・渋谷秀逸・熊谷時雄のはかりごとであります。
 当時、100%の国庫補助を受けた事業経験がなく、議会が少し騒いだのを良いことにして、「事業費の10%を負担した方が議会が治まる、その金は一旦村で預かり時期が来たら返す。ふれあい館は営業施設でないから半分の250万円にしてやってくれ」「施設はいずれ払下げをするが、会計検査対象年7年過ぎるまでは待ってくれ」

 平成15・6年ごろ園原の里開発株式会社を閉鎖し野熊の庄月川という会社を設立しているが、その会社では管理委託契約を行っていない。この事は明らかに契約事項として法律に違反している。
 その後、何ら委託契約が存在していない会社を指定管理者とさせているが、これも明らかな法律違反である。                                   平成29年3月26日

 2,000が7,500に
 裏工作として行った見せかけ負担金、金額としては2,000万余り、それがなぜ7,500万にも膨れあがったのか? 此処にも多くの疑問が出てきます。
 2,000万円の内訳
実際の内訳は、岡庭一雄・熊谷時雄・渋谷秀逸しか知りません。 ふれあい館(現門前屋)が建設事業費5,000万円でその半額250万円でしたから、月川旅館1,750万円、パークランド500万円程度の割り振りであったかと思います。
 7,500-2,000=5,500
リフレッシュモデル事業の目的は都市との交流でありましたから、「最低限の宿泊施設とせよ」「自炊方式にせよ」が基本でありました。 園原開発株式会社としてこの施設の運営管理を行えというのに、キャンプでもあるまいに自炊では単に宿泊料しか収益が見込めません。 たとえインターが開いたにしても来るかどうか分からない観光客に、「自炊施設ですよ、泊まってください」なんて、とてもとても考えられることではありませんでした。
 旅館にしなければ駄目です
「山間の小さな旅館」 何も無いところに宿泊施設をつくる分けですから、何か特色を出さなくてはなりません。「岡庭さん、ちゃんとした旅館にしなければ経営計画が成り立ちません」 平成29年3月29日

 予算が無い
 宿泊施設としての予算取りは8,000万円でした。 簡易宿泊の自炊方式ですから当たり前ですが、そこにテニスコートを二面(一面1,000万)ですからとても旅館になんて出来ません。(昼神温泉は温泉旅館建設ラッシュ時であり、坪50万円から60万円かかっていました)
 テニスコート
岡庭さんのどんぶり勘定には恐れ入りました。知識が無いのですからやむを得ませんが、軟式テニスの土コート程度の予算でした。「岡庭さん、硬式ですから人工芝かクッション舗装コートを造らないと誰も来てもらえませんよ」「土のコートに自炊の小屋で、お客さんは呼べないですね、 残念!」

 決断
宿泊施設旅館:7室の客室に食堂兼用大広間  浴室は男女各  厨房は別予算   1億円
テニスコート:人工芝の公式コート二面  2,000万円(一面は土コート)
翌年厨房を建設する:施設1,000万円  厨房機器:1,000万円
合 計(設計料込み)14,000万円

 竣工式は、パークランド・ふれあい館・月川旅館として月川旅館で開かれました。 この時配布されたパンフレットには設計費他として870万円計上されていましたが、設計費は500万円でした。370万円何処に消えたのでしょうか?
(設計料の1割、50万円を智里西開発組合に寄付をしております)         平成29年3月31日

 熊谷村長を恫喝
 3月17日、金曜日 熊谷村長を智里西林業活動拠点施設に呼びつけ、月川旅館とパークランドの指定管理者解除したのは正当でないとして翻意を促しているが、このこと自体が阿智村長に対して “恐喝” に当たると、私は認識している。(通常の人であればそう判断する)
 これだけでも異常であるが、熊谷村長の横に、さもこの会議の議長でありますよ!!として、ドンと座っていたのが誰あろう、『原 憲司』(第三の男その2)でありました。
 原憲司氏も党員
この人だけは、党員であっても正しい人だと、正しい人であってほしいと期待していました。 何あろう、竹馬の友の義兄であるからである。
 本質を見た
熊谷村長の横に座り、睨みを利かすその姿を目の当たりにすると、残念ながら共産党会議の議長の姿そのものでありました。                             平成29年4月2日

 私は全てを知っている
 原憲司氏と言えば、熊谷村長が出馬するときの後援会長でありました。 「岡庭一雄に代わる唯一の候補者は熊谷英樹氏を置いて他に無い」として全面的なバックアップで無投票に持ち込んだ立役者であります。また、熊谷時雄に対し、「お前は後援会に顔を出すな!」と、告げたことでも名をあげています。
 原憲司氏は劇団演出者
この様な村長選挙を打ったことで村民は信じ切っていたようですが、私は知っていました。 これは “寸劇” であり、“台本” 通りに進められたことであると

 シナリオ
 岡庭一雄自身は当然続投の意思は強く有りましたが、余りの評判の悪さには子飼いの党員され寄りつかなくなっておりました。 熊谷時雄とは絶縁状態(官製談合刑事告発を恐れ)のまま、この事態を憂慮した原憲司氏は、来たるべく村長選に向け大きな方向転換を図る必要があると二人を呼び寄せました。 そして、“絵” を書きました。  「思い通りになる村長をつくる」      平成29年4月4日

 岡庭一雄の吹聴
 「彼は私の私学塾に入っていた後継者である」 なんともはや、うまいことを考えていたもので有りましょう。 岡庭はこの様な事を、誰彼無く吹聴しまくりました。ホント、誰彼無くね、ですから信じる人が多く有りました。(それに近い事をやっており、熊谷英樹氏は確かに出席している)
 原憲司氏が党員だとは、党員しか知らないこと
村民を騙すのは簡単なことです。そうでしょう? 髙坂美和子が党員だとは薄々分かる人はいたかも知れないが、熊谷時雄が恐ろしい党員だと知らなかったでしょ。(警察でも熊谷時雄が党員だとは知らなかったですよ) 原憲司氏は議員を辞めるつもりは全くなかったが、健康状態を危惧して後継(党員)に道を譲ったのでありました。(後継の党員さん、そうでしょ、あなたは私のサイトにmomimomiアドレスでコメントいただいておりますね)
 熊谷英樹氏の方が一枚上手ですよ。
村長と元議員の党員三人の悪巧み、こんなこと私に通用するつもりでいたのでしょうか。 熊谷英樹氏がなぜ岡庭の言う私学塾に入っていたのか? そこで、なぜ後継者としなければならなかったのか? そう考えれば誰でも簡単に分かることです。 熊谷英樹氏が党員かどうか、たったそれだけのことが分かれば、簡単な “クイズ” でありましょう。                    平成29年4月6

 簡単なクイズ
 熊谷英樹氏がなぜ岡庭が言う私学塾に顔を出したのか? と考えてみましょう。党員ならば岡庭の言う通りでありましょうが、党員んでないとしたらなぜ?その様な行為をしたのでしょう。
 虎穴に入らずんば虎子を得ず
成功を求めてでは無く、阿智村が異常と感じ、それが何かを知るためには自らが行動しなければ成らないとされた。 私はその様に感じました。
 知る由も無い三人の党員(岡庭・時雄・原)
彼等は熊谷英樹氏が利用できると考え、熊谷英樹氏は彼等の謀略に乗ろうと行動した。 これがクイズの答えです。(ね、一枚上手でしょ)
 はだてる
原憲司氏はどうしても後援会長に成らなければならない。押しの強い人ですからと音を出せば逆らう人はいないでしょうし、党員だとは知らないですからね。 これで念押しに時雄に対して、「お前は顔を出すな!」と言えば、村民までもが信用しちゃうよね。(^0^)            
 茶番劇
私には茶番劇に見えましたが熊谷英樹氏も大した者である、敵の神輿に担がれたのですからね。平成29年4月8日

 言うことを聞かない村長
 岡庭達はいつ頃気づいたのでしょうか? 当初から薄々感づいていたと思いますよ。でも若いからなめていたんでしょうね、ですから強面が後ろ竪で「俺たちが村長にしたんだ!」とやれば、何とかなる程度だったのでしょう。それに、彼等の中には村長候補は誰も居なかったですからね。
 対抗馬がいた
伍和で辻立ちをした人が居ました。知らない人です、正直ビックリしましたね。 でも、岡庭以外なら誰でも良いと、また、岡庭は仲間内を出すだろうから彼を応援しようかと考えていました。
 言うことを聞けない村長
熊谷英樹氏が村長に成りましたが、その年の冬にはもう悪口が聞こえてくるようになりました。議員達も「何も出来ない村長」のレッテルを貼り始めました。 その事は、少なくとも私にとっては「とても期待する村長」と聞こえておりました。
 何も出来ない村長は、何もやらない村長である
村長に成って一年や二年、何もやらないことは当たり前でありますが、岡庭一雄の共産党行政を打破するのは並大抵のことではありません。熊谷村長が批判されればされるほど、彼等の言うことを聞かない村長として、着々と浸透していくのです。                    平成29年4月10日

 仮橋の架け替えと原憲司氏
 『月川旅館への仮橋の架け替えを、1/3負担無しで実施せよ』と、議会に於いて要求したのは原憲司元議員であります。岡庭村長・熊谷時雄議長の時でありますから、それを上げるには原憲司元議員しかいませんでした。当然の出来レースですが、その事に異を唱える議員が誰もいなかったことは、如何に岡庭共産党政権に牛耳られていたかがうかがえます。

原憲司氏が熊谷村長の横に居る
 月川旅館の指定管理者を外すとした村長の決断は専権事項であります。その事の翻意を迫る為に智里西林業活動拠点施設に村長を呼び付け、村長の横に原憲司元議員が座って居たということは、原憲司氏が村長を呼び付けたことに他ありません。
 原憲司氏の立場は何でしょうか?
どの様に見ても共産党員でしょう。共産党員議員が村長の専権事項に反対しているのですから、それは明らかなことでしょう。
 熊谷村長を恫喝する!
あり得ないことでは無いでしょうか、彼等はこの事が犯罪であると考えていない。 熊谷村長は村長です。阿智村長が恫喝されたのですから警察に被害届を出さなくては成りません。(出すことになります)平成29年4月12日

 その席に髙坂議長が同席していた
耳を疑う話しばかしでしょう、「そんな馬鹿な?」と、議員までも「髙坂議長は『俺は党員じゃ無い』と言っていたが、まんま!じゃないか」と信じられないでしょうが、本当のことです。
 時雄とまったく同じ考え
髙坂和夫と言いましたかね、このおじさん。 職場では組合活動していたと聞きました。 馬鹿なというより、根っからの人間なのでしょう。 議員に成ったのは時雄と同じく “手段” なのでしょう。
時雄とまったく同じ発言で熊谷村長を恫喝しています。村長から、「議員裁決でも何でもどうぞ」と言わしめた事で、動かぬ証拠となりました。
 訴えなければ成りません。
熊谷村長であれば、事後のことを考えて躊躇もするでしょうが、阿智村の村長ですから、「恫喝され、翻意を強制的に促されました」と、提訴しなければ成りません。
 現職の議長を訴えることを避ける
この様な事があっては阿智村は保ちません。 議会は村長に一両日の期間をお願いし、髙坂議長を解任させることを行わなくてはいけません。(今の議会で出来ますでしょうか?)    平成29年4月14日

 馬鹿でも気づく
 熊谷村長の「野熊の庄月川株式会社の指定管理者を解除する」との採決は、6体5で可決されました。 その模様は村内テレビでも放映され多くの村民は胸を撫で下ろしたでしょう。
 これで解決したのでしょうか?
村長の専権事項を議会で諮るとした議長判断、この事を問題視される議員は居たでしょうか? 誰もいなかったのではないでしょうか! この事を指摘する村民の声も聞こえてきません。
 議長判断の背景
熊谷村長を恫喝した!翻意を促し議会採決に持ち込んだ! それは正しく犯罪であります。その様な背景を私は公開しましたが、熊谷村長は当然その様に判断して臨時議会を受け止めています。
 高坂議長も馬鹿でもあるまい。今後どのように成るかは明らかな事、議長として自身の始末をつけなければ私はこの件も「刑事告発」いたします。(その時点では村長も同じ行動をとらざるを得ません)

 高坂和夫の取るべき道
 「私のブログを見よ!入院してる暇で見ろ!」 とコメントしてくれた方がいます。 まだ「大変な事をしてしまった」と気づいていなければ、それを伝えるのは仲間内の5議員ではないでしょうか。(共犯者と村民に言われないためにもね)
阿智村議会議員の皆様、高坂和夫に “引導” するのは、あなた達議員の職責です。  平成29年4月16日

 村民の目
 悲しからずや人の目は、見えるものしか見ていない
熊谷英樹氏が村長に出ると決断したとき、殆どの村民は岡庭一雄の後継と見ていたのでは無いでしょうか。そして原憲司氏が裏に着いたことにより、これは “既定路線” だろうと思う人がいたり、「いや、この人が着けば阿智村は変わるかも知れない」と、期待した人もいたでしょう。
 思い通りに成らない村長
原憲司氏は期待したと思います。「俺がここまで面倒見たんだ、俺の言うことは聞くだろう」とね。 でも蓋を開けてみれば、何一つ相談に来ない。 岡庭も公民館長の座ですら取り得なかった。
 揺さぶりを掛ける共産党
阿智村リニア社会環境アセスメントを進める目的は二つありました。 「共産党の旗印にする!」ことと「岡庭一雄の存在を示す!」ことです。
 言うことを聞かない村長の評判を落とすには、『岡庭一雄が実質的な村長なのだ!』を印象付ければよいことです。
「岡庭一雄の言いなりだ!」「ああ、こんな若い村長じゃ駄目だ」「あれも共産党か」 平成29年4月18日

 世間の評判
 16年もの長い間思い通りの村として来たことは、既に村民をも委縮されるに至っていました。 言う通りに成る議会ではなく、議会そのものも共産党の傀儡(かいらい)と化していましたから無理も有りません。
駒場は岡庭の地元、春日は佐々木幸人、智里は水上宗光、伍和は時雄が腰巾着の上原耕平を連れまわし。向かうところ敵なし! そんなところで私が何を言っても歯が立ちませんでした。
 飯田市に成って欲しい
その様に考えていた人はとても多く居たんではないかと思います。私も強く思いました。多くの人に成れば多くの人の意見や考えが有る、少なくても共産党の村は無くなる。
 熊谷村長の誕生
私にとって熊谷村長の誕生は思いもよらぬことでした。 どちらかといえば、他の村民と同じく岡庭一雄の後継ではないか?
これであれば伍和青見平で声を上げた勇気ある者を応援しよう!と思っていました。  平成29年4月20日

 聞こえてくる評判
 熊谷村長の評判は著しくありませんでした。その中でも岡庭一雄の後継だと思っている人たちはなおの事そう感じていたでしょう。
 何か違う?
岡庭たちは必至で評判を落とすことばかりを続けていたんだと思います。しかし悪い評判を聞くにつけ、逆に違和感を感じさせることになっていくのです。
もしかしたら彼らの仲間でないのかも? それが強く感じたのが「渋谷扔國公民館長の件」でした。
 時雄が怒鳴り込んで覆した。
それはまだ岡庭一雄との修復が出来ていないことの証明であり、「岡庭一雄村長の後継は熊谷時雄」だとした、遠い約束が反故にされたままで、尚且つ、熊谷時雄が村長に成ろうとした画策に、岡庭一雄が一歩も動かなかったことの証明でもありました。                 平成29年4月22日

 孤立していた熊谷村長
 議員からも否定の言葉しか聞こえてきませんでした。(義文議員ですがね、でも、そんな雰囲気は十分に察することが出来ましたよ)
 極めつけは
やはりリニア社会環境アセスメントです。「岡庭一雄が言い出して、岡庭一雄が作っている、熊谷村長は岡庭の言いなりだ!」 その様な事が聞こえてまいりました。
 共産党のやること
正常な住民は皆その様に捉えていたかと思いますが、如何にせん阿智村は共産党が多すぎます。岡庭のやることは正しく “やるべき事” としてまかり通っているのです。
「熊谷村長は何にも出来ない」はや、その様な状況は出来上がっており、岡庭の “院政” が続いていることを示しておりました。                           平成29年4月24日

 熊谷村長は違う?!
 何度も言いますが、阿智村の岡庭一雄に組する共産党員が異常なだけであります。他の党員を名乗っている者や名乗りもせずに隠れている党員は常識と正常な考えは持っていることでしょう。
 世間から見れば同じ
この様に冷静に見れば分かることですが、世間ではそうは見ません。また、そう仕向けているのが岡庭一派なのです。
 阿智以外の共産党員
「岡庭一雄は党員じゃ無い!」おそらく口を揃えたが如くこの様に言うことでしょう。 これには二つの理由があります。
一つは、岡庭一雄という人間性です。これは熊谷時雄とまったく同じで、その場その場で立ち位置を変え、自分にとって有利な方向へ舵を取ると言うことです。ですから、チャンとした党員は岡庭一雄という男を認めていないのです。
 もう一つの理由は、「岡庭一雄の阿智村はどうでも良い」と、心底思っていることです。
岡庭一雄が共産党だと思われることは、飯田下伊那の共産党が同じイメージを植え付けられる。岡庭一雄を共産党員と認めると政治政党の共産党のダメージとなる。それだけは絶対に許せない!
(この話し、何人かの共産党員に聞きました)
「岡庭一雄さんが毎日役場に来て、『リニアアセスメントをやれ!』とうるさくてうるさくて。村長も困っている」 この様な話しが聞こえてきました。                平成29年4月26日

 岡庭を否定している!
 この上ない馬鹿な事をやっている高坂和男議長に少しご意見を
あなたは、「俺は共産党ではない!章のブログはデタラメを書いている、嘘だらけだ!」と、ご立腹のようですが、あなたの足りない頭に少々お知恵を授けて上げましょう。
 私のブログのご愛読者でありがとうございます。15万を超えたアクセスの50回くらいは見ていただいておりますか?最低でも100回くらい見て居られれば “要らぬお世話” にもなりますが。
 党員は共産党員でしょうか?
党員と呼ばれたり、党員だよと書かれたりするとあなたは共産党員をイメージするのですね。そして、共産党員じゃないと否定するのですね。
あなたが言う共産党員は非常にイメージの悪い、または悪い人達の総称呼称と成るわけですね!
私はそうは書いていませんし、現実にそう思ってもいません。 あなたとは全く次元の違う見解で有ります。
あなたにとっっては “党員” と書かれたり、党員と呼ばれることが屈辱なんですね。
そうでないとしたら、責めて議員仲間内では共産党員に敬意をもって接してください。
そうでないとしたら、人間として最低ですよ。
 あなたは以前の職場にて労組の中心的な立場で在ったとか。人生を課して、在る面人のために働いたとお見受けします。
往々にしてその様な立場で働いた方たちを、世間では “左より” と判断します。
議員と成られてあなたは阿智村のために何を成されたのでしょうか? 岡庭一雄前村長の基、熊谷時雄元議長と “同じ考え” で高坂美和子前議長ともども行動したのではありませんか!
 その様な活動を成されていれば、阿智村中の村民はあなたの事を「共産党」と呼ぶでしょう。あなたがどんなに否定しても、「岡庭や時雄の仲間だ!」「恐ろしい方の共産党だ!」と決めつけるでしょう。  平成29年4月28日

 あなたの異常性
 高坂和男さん、私はあなたとは面識有りませんが、あなたの考えは手に取るようにわかります。 “木を見て森を見ず” です。
仮にもあなたは議長になりたくてなった人、勝野公人議員は議長に成らざるを得ないとして手を挙げた人。 そのように大きな差があることを私だけでなく、多くの村民が見ていることをお忘れなく。
仮にもあなたも伍和地区の一角で選ばれた方、あなたにも多くの “正常な村民” が応援したのではないでしょうか。
あなたは地区代表議員です。共産党のように全村代表と能書きを垂れる議員でないと、「俺は共産党ではない!」と共産党を否定するならば、代表議員として「誰のために働くのか!」を自覚することです。
 村民に詰められる前に
「議員として認められない者は議長では在らず」です。 あなたの行動はその前の議員に在らずです。
 私はこのような方法であなたに忠告します。「議長を辞任してください」
村民は羊ではありません。思い知らされる前に身を改めてください。        平成29年4月30日

 議会の私物化
 味噌が片寄りの高坂和男議長にもの申す!
株式会社野熊の庄月川の月川旅館指定管理者を解除した理由は熊谷村長が明確に述べています。「平成14年に国税局に入られ多額の脱税が有ったことが判明した。ついては株式会社野熊の庄月川の指定管理者は不適当と判断し、それを解除する」 この様に決断し、議会へ報告しています。
 議会は何を取り扱うのか?
村長が決断し決定した事項について議会が扱う事は出来ない。出来るとすれば不信任案提出です。
不信任案が可決されたならば、村長は議会を解散(専権事項)することに成ります。
 たったそれだけの事
高坂議長、あなたは村長不信任案を提出することが出来ますか? または、あなたに賛同している5名の議員、熊谷義文・吉田哲也・野村和男・木下勝吉・原佐代子等はどうでしょう? そんな事を考える頭も無いでしょう! (この様なお粗末すぎる議員が居ること自体が信じられませんが)
普通の村民はその様に見ているのです。そして「馬鹿なことをやるもんじゃない!」「余りにも馬鹿げてる!」から「早く警察が捕まえないからだ!」になり、「いつまでも馬鹿なことを続けさせるな!」になりました。平成29年5月2日    
  
  
不信任案は高坂議長、あなたに出されるもの
   昨年提出した議会議員の皆様への公開質問状、内容はともかくとして議会議員はどうして取り扱いを行わなかったのでしょうか。そこに “答え” があると思いませんか?
   質問状の取り扱い自体を知らない議員が居たことが一番の原因でしょう。
自身に関与している内容でも、自身が関与せずとして取り扱うことが出来るのに、あまりに関与し過ぎていてとち狂ったのでしょうか?
 逃げ道はいくらでも有ったはず
関与し過ぎている議員であれば、積極的に取り扱うことで “弁解” はいくらでも出来ますし、まして岡庭一雄や熊谷時雄の犯罪を指摘している事、「議員であれば誰が見ても分かる内容」です。
淡々と、“中身が無い返答” であってもそれで済んでしまいます。あとは私が勝手に決めることです。
 結果的に前期の議会では何の対応もせずとして決めたようでありました。
高坂美和子前議長は共産党員としてあまりにも真面目であり過ぎたんだと思います。議長でありながら共産党の指示に従ったんですから本部からの「お褒めの言葉」は有ったのでは(^^)/
 さて冗談はさておき、一番の問題は下平弁護士でありましょう。正直、彼が一番始末が悪いのです。弁護士として自分の逃げ場は知っている訳ですからね。(下平弁護士についてはこの後に書き出します)
 今になって考えると
高坂美和子は党員として時雄に対峙している。道義的な事はさておき、時雄にご注進しています。それは自分の身を守ることであったかもしれないが、「荒廃地に菜の花を植え付ける村の補助金搾取」を時雄に質した事は事実である。
何とかしようとの行動は有った、しかし、自身も時雄や岡庭に利用されてきたと気づくのが遅すぎた事も相まって中途半端な対応しか出来なかったことも事実であろう。
 逃げるように隠れるように
高坂美和子は去っていったが、それで許されることでもない。今年の村政懇談会の席にも出席していて “叱責を受けた高坂議長” の横でうつむいていたと聞いたが、それも党員のなせる業でありましょうや。 平成29年5月4日  
  
  
何を引き継いだ議長さん
   岡庭一雄の16年にも及ぶ村政で、誰も可も当たり前だと普通の事だと思い込んでいるかもしれない。 それを確かに表しているのが議員各者ではないでしょうか。
   岡庭に組するものは時雄と同調し、別である、俺は違うという者も、岡庭一雄や熊谷時雄の手の内で争っている。
村民も全くそうである。 岡庭一派や共産党の過激な奴らの批判はすれど、彼等の悪あがきの良し悪しだけを計っているだけでいさめようともしない。(近況は違ってきました。数名が立ち上がって行動しています。この事で阿智村に民意が生まれ立ち直るかもしれません)
   議長が判断するものは何もない
議長は判断すべきでないし判断できることでも無い。今更議会制民主主義を岡庭に組する議員に言ってはみても無駄な事ではあるが、高坂議長が「俺は共産党じゃない!」と力強く宣言しているのなら、「議長の前に議員である。議員は住民の代表であり住民の代弁者でしか無い!」ということを今一度胸に強く刻み込むべきではないか。
   恥を知れ!
高坂和男さん、あなたは時雄と同じ人種なんですよ。共産党なんてとんでもない話、足元にも及びませんね。
あなたは議員はおろか人間としても資格は無いと私は思ってしまいました。
ですから高坂和男議長、「不信任案」はあなた、議長に出されるものと判断しています。平成29年5月6日  
  
  
百歩譲って
 高坂和男議員が議長として遺脱(逸脱)していないと無理やり仮定した場合はどうでしょう。
熊谷村長から、「議会において採決していただいても結構です」との言葉を引き出し、臨時議会を開催した。
 臨時でも議会
議会で採決することは『議会において決定』することです。 「賛成多数で可決」されました。とライブで村民に知らしめました。
 結論が出た
高坂議長の行動を無理やり仮定(出来るものと)したとしても結果は出たのです。
 これで終わり
唐突に開かれた臨時議会、たとえライブであっても多くの村民は知る由もなかったでしょう。
高坂議長さん、これもそれも、あなたが個人的に阿智村議会を運用した事に成ります。
其れの根底が熊谷時雄の指示だったと、高坂和男は時雄の仲間だと、あなた自身がそれを認めたことになったのです。
 臨時議会の経過と結果を知った良識ある村民は、それでも “我慢” したのです。
 なぜ我慢したのでしょうか!
それは、まだ村民の代表が “6人居る” と、認識出来たからに他なりません。         平成29年5月8日  
  
  
智里西地区に通知された 『5月18日の議長出張会議』 の異常
 「熊谷時雄がまだ画策している」と聞こえてきた。高坂議長はそれに応え議員総会を開いたようだ、とも。
 何を考えているのだろう?
村長判断に賛成した議員六名に、その真意を聞くという。 何を言っているの? そんなバカなことは無いだろ? あり得ない話じゃないか!? そのような声も併せて聞こえてきました。
 高坂議長、あなたはどういう人ですか?
「俺は共産党じゃない、出鱈目を書くな」とは、しばらく前に聞こえてきていたが、「ではあなたは何なんだ?時雄の手下でなくて何なんだ」と言いたいものであります。そして聞きたいのは「あなたはどういう人ですか?」
 5月16日に村民を集めて6人の考えを聞く
コミュニティー会館かどこかで開催するというが、5月18日に議員懇談会を各地区で行う通知より、その通知を全村に連絡せしめる方が先と思いますよ。 時雄の息のかかった連中だけを集めて何かをすれば、何をしたのかと追及有ることも覚悟してください。
 住民の追求だけだと甘く見ていたらとんでもない事に成りますよ。 岡庭や時雄は終わっていく人間だが、あなたや5人の議員に “その覚悟” はありますか?           平成29年5月10日   
   議員懇談会の通知
 このサイトを始めたころ、中関地区の議員懇談会の席において佐々木幸仁氏が私を気違い扱いしたとコメントがありました。
佐々木氏は岡庭村政時の副村長でしたから、その様な発言は当然でありましょう。 私はそのコメント返信に「議員懇談会の開催は不適」と、また「共産党会議ではないか」とも書いております。
 自治会長との連名通知の違和感
智里西地区に配布された通知には、高坂議長・自治会長の連名が記されております。
高坂議長が自治会を通じて「議員懇談会を開催します」ではなく、「議員懇談会を自治会と共に開催します」となっています。   
   
   阿智村議員の不見識
私が「共産党会議ではないか!」と揶揄した意味は、「議員懇談会など出来ないよ」ということです。
村の予算について懇談するのは村政懇談会での村長の役割、要望の聞き取りも行政が行う事です。
 議員は特定地域住民・特定団体の代表
議員は特定地域の代表で立候補しています。そしてその母体もまた “後援会” であります。
地元代表で立候補しているからこそ、自治会や後援会で報告や陳情を受ける事が出来るのです。
 全村議員
地元代表でない議員、阿智村では現在共産党の原議員しかいません。
 共産党は政党
政党議員ですから地元(あるのかな?)の事を何もやらずして、「消費税反対」やれ「憲法九条を守れ」と、声を上げ、党の方針通り活動するだけであります。            平成29年5月12日   
   
   議長の権限範囲外
 「今年の議員懇談会は去年と違う」 議長が主体で議会として全村を回るのだ と聞きました。
六人ずつ、二つに分けて回るそうです。 実は、ここにも隠された疑惑が存在しています。
 一つは議員全員が知っている事
「智里西には議長班、月川旅館指定管理外しに反対の六名」が行くという。高坂議長は “それ” が目的ですね。 賛成派と反対派にグループを分け、未だ村内をかき回すことが目的である。
 二つ目は智里西の住民は知っている
智里西の自治会は始めた当初から熊谷時雄の機動組織で有りました。全てを思い通りにし、個人収益のために利用してきています。
議員を辞めた時、自ら自治会長となり院政の足がかりをつくる。子飼いを次期会長に決め継続させた。
その次も当然のごとく視野に入れて人選を行った。
当然のごとく「言う事を聞く奴」だと考えていたと思うが、じつはそれが時雄にとって大きな誤算となったのだ。
 正しい男
昨年度の自治会長、彼は時雄の思い通りと成らなかったのです。
一昨年、その彼は副自治会長となりました。時雄の人選ではありましたが、時雄とは全く考えの違う人でありました。                                  平成29年5月14日  
  
  
彼との出会い
 年は私よりいくつか下で、また時雄君と同じ農間部落ということもあり、普段のお付き合いは無かったものの、ハッキリとものを言う彼でした。
彼が副自治会長になって数ヵ月後、ある飲み会の席で隣り合わせたことがありました。
 自治会の中に入ってこそ分かるもの
「章文さのおい様だけど、私は花桃のやり方、あれは少し疑問がある。あれは何も地元のためになっていない。秀逸さに聞きにいきましたよ」
 !正直びっくり!
今までこのように違和感を口にする者は誰もいなかった。 時雄君のやり方で陰口をたたくものはいましたが、叔父に対して疑問を直接呈したとは!
 彼は悪口を言っているわけではない、疑問を持ったのだ。 自治会の中に入って各事業の内容や進め方、金の使われ方、それらを自分なりに精査したのであろう。
 責任感が成せるもの
副自治会長から自治会長へと、その役を請けた者の正当な考え方であります。
時雄君が取り決めた時雄君のための自治会、そこで何の疑いもせずして「一生懸命委員を役員をやっている」と、妙な満足感で声を出す者もいれば、純粋に、自治会とはこう在るべきであろうとして取り組む姿勢があったから気づいたのではないでしょうか。
 地区民からお金を集めている、そこでは何の影響も無い年寄り家庭が多くある。
そのような人達からも大金を集金するのであれば、自治会は、自治会の事業はその人達に貢献あることを中心に扱うべきではないか。                          平成29年5月16日  
  
  
私は勇気を持った
 自治会はこう在るべきだ、自治会でやり過ぎてはいけない。自治会で多くの金を集めるべきでない。居住していない者から集金すべきでない。
何度このような事を口にしてきたか、そして幾度となく時雄と衝突してきたことか。 西の谷にはどうしてこうも情けない奴しかいないのか、それでもあきらめずに声を出してきた。
 諦めかけていた
自治会は修正できないだろうと半ばあきらめかけていました。 ちょうどそんな時、彼が現れたのである。
転勤族であったので実情が知らなかったのが幸いしたかもしれない。 でも「おかしい」と気づくことは、またそれに声を上げることは「すごい」ことであります。
 彼なら変えられるかも
彼は誰に頼まれたわけではない、まして私が反対してきたことも知っているわけじゃない。普段の考えの中でおかしい事は直そうと、それも一人でも立ち向かおうとしている。
それまでにない興奮を覚えました。「ああ、やっと分かってくれる者がいた」 そう思うと同時に、彼が居れば自治会を変えられると強く感じました。 それと同時に、これは天が与えてくれたチャンスかもしれない、であれば、西の谷の悪を根絶できるかもしれない。
(財産区は別々になるべきだ、これ以上西の三悪人の思い通りにさせてはならない。この様に考えて思考している時でありました)                           平成29年5月18日   
   
   タイミング
 この時点では何をどうするとは決めていませんでしたが、本谷・園原財産区だけはどうしても解散せねば成るまいとしていました。
 ここにある犯罪
不正な団体で不正行為をし、その不正が今も続いている。そこにある不正は全て犯罪となっており、そこには行政も絡んでしまっている。
いつか必ずその不正は暴かれるが、警察が介入したら逮捕者を出してしまうだろう。
それだけは絶対に避けなければならない。そうならない為には無理やりつくり上げたこの財産区を解体するしかない。
 正攻法
ものを正すとすれば正攻法で行くしかありません。それには客観的に捉えてもらうしかありませんが、その様に判断できる者は誰もおりません。それが出来そうな者は、「我関知せず」でこの谷に寄りつきません。
そんな中で唯一の人が彼で有りました。彼が自治会にいれば、必ずやその様な受け止め方をしてくれるであろう。
 はたしてその通り
一匹狼で一人立ち上がっているように感じた人が多いと思いますが、この谷も捨てたものではありません、ちゃんと分る者は居りました。 足早に行動すれば三悪人の動きは手に取るように判断できました。
 時雄君の焦り
自治会長人事は、先手先手で進めていたと思いこんでいたのではないでしょうか。 ところがどっこい、反旗を翻した奴は敵だと言わんばかしに部落内で攻撃し始めたのです。
 時雄君の本領発揮
仕返しをしなきゃ気が済まないの時雄君ならですが、そんなことで怯む彼ではありません。一年間、副自治会長をやり遂げました。                           平成29年5月20日
   
   次期副会長人事
 副自治会長として一年間自治会事業に携わる中で、自治会の事業として相応しいのか、改良するところが有るのではないか?と意見交換を行っていましたが、それは熊谷時雄にとっては想定も付かない危機感を生むことと成っていくのです。
 根拠の無い時雄君
自分に得することの積み重ねでありますから、意見交換ではボロが出てしまいます。いつものように「うるさい!黙れ!」「悪いか?」は現役で無いから通用しません。
 攻撃開始
いつもの様に子飼いを使い反論させますが、子飼いでは時雄君の指示通り話せない、動けないでありました。 それでもまだ会長の渋谷吉彦は第一の子分でありましたから「副会長のたわごと」として無視することが出来ました。
 問題は彼が自治会長と成ったときです。
彼の自治会長一年間は、時雄君の思い通り動く副自治会長が必要と、早々に手を打ち始めたのでありました。
 副自治会長は熊谷秀二
歳は時雄君より一つ下、園原部落であり、私の家とは二代に渡り嫁いでいる一番深い親戚であります。父典章の従兄弟であります。
 時雄君の言いなり
彼は若いときから部落のお付き合いをしてきていますから、私よりはるかに部落のことには詳しいです。人も良く、敵を作るタイプではありません。 残念なのは、「悪いことを悪い」と言えないところに有ります。彼に少しでもその様な気持ちがあれば、「熊谷操の横領」は早い段階で解決できたと思います。
熊谷操氏に何も言えないのは、何も言えない理由があるからで、このような人達が園原に多いからこうなってしまいました。                            平成29年5月22日  
  
   時雄と秀二の関係
 人間の心理とは不思議なものであります。 自分を中心にする余り、自分を納得させようとする考えが占めてしまいます。
 立場立場の変化
立ち位置により考え方が変わるのは当然でありますが、得てして、その事が周りに誤解を生じさせることや、批判対象ともなってしまいます。
 人の上に立つという魔力感
社会全般で哲学的なことを論じるつもりは有りませんので、簡単に自治協議会に限定します。
自治会長になる! ということは、片田舎・山の中であっても最大の立ち位置と感じている人が多く居るのではないでしょうか。
 時雄君のような男は普段から、“人の上に居る” と思っていますから利用するだけでありましょうが、一般の人が自治会長や自治会の役員を仰せつかればどのように感じてしまうものなのでありましょうか。
 頑張ろう!
「一生懸命に遣ろう!」、その様に誰しもが思うのではないでしょうか。 しかしそこから先が、個々の “納得の仕方” に相違点が出てくるのです。                   平成29年5月24日
  
   どちらも間違いではない
 社会経験がある人は、社会的責任が何たるかを体感しておられると思います。特に、新入社員から定年までを同じ職場で過ごされた方は、それが自身の裏付けともなっているでしょう。
 その様な経験の中で自治会長の立場になったならば、純粋に責任感の中で遂行しようと考えるのではないでしょうか。
 自治会長に推薦された、それも熊谷時雄君の意向が強くあった、としたらどうでしょうか?!
現実的にまったく違う責任感を感じました。   
  
   自治会長:時雄君の次は渋谷君
人間性はとても良いし、何より幼友達であります。熊谷時雄君に近寄られ、時雄君に利用されてきたから誤解を生んでしまったのであります。
彼の発言や行動は時雄君の指示するところ、自治会長となっても時雄君の指示に従っていた。
責任感が無いのか?!ということではなく、ある面、時雄君の意向に答えようとする気持ちが強かったのではないかと思います。
 時雄君が正しいことを行っているならば、それはまったく持って渋谷君の責任感の表れですが、今回の財産区の件、月川や仮橋の架け替えに見られるような、「時雄君の悪巧み」の中で最悪の結果となってしまったならば、違う形の責任が出てしまいます。                平成29年5月26日  
  
   知らないという事
   時雄君は30も過ぎてからこの谷に戻ってきています。最初の数年間は厳格な父親のもと、何一つ出来なく、何一つ知ることもありませんでした。
 父親の急逝
厳格な父親が居なくなった反動は大きく、あまつさえ莫大な遺産を引きついだことにより舞い上がってしまったのだと思います。
 残念なことは、子供が急に世の中に出たというような感じでありますから、社会の経験が全くと言ってよいほど無く、まして智里西地区の経過なんては全然知る由もありませんでした。
 動物的感なのか
誰に着けば得策なのか、誰に着けば先行き議員に、村長に成ろうとするとき有利になのか?!が彼の考えを占めていたと思います。 ですから、最初は年が離れている、時雄君の事を何も知らない私が世間でいう「時雄君の仲間」と思われていたことでしょう。               平成29年5月28日  
  
   離れる私にも攻撃開始
 考えすぎは良くないですよ。 何度この言葉を時雄君に言ったか覚えていませんが、とにかく「人の腹」を推し量る人でした。そして、「あれはこうだどうだ」「こう考えていると思うからこうしよう」などなど、全てのことを疑って掛かるから思わず言ってしまったことがあります。
 なぜそこまで考えなきゃならんのかな?
西の谷の人達はそこまで考えて行動する人は居ませんよ! 今でも鮮明に覚えていますが、その時から私を遠ざけるようになったと思います。
 その時の時雄君の敵は、熊谷操氏
叔父に近寄ったのは自分の行く末で “有利な人” であったからですが、叔父と操氏の犬猿の仲を “輪を掛けた” のは、誰あろう時雄君です。
 影では操氏に近寄っていた。
私の前では操氏の悪口ばかし、前段の「人の腹」の人は熊谷操氏のことです。 それでもって、操氏に近寄って、擦り寄っていたことは叔父も知っていましたし、操氏の息子、孝志もその事を一番よく知っています。                                    平成29年5月30日
  

   現役の村会議員、熊谷操
   それは何と言っても強い存在でした。 園原財産区で操氏、本谷財産区で田中氏となれば、時雄氏の行く末は閉ざされます。また、時雄氏は本谷財産区、田中氏の後釜では数年先に成る。そこで利用しようと考えたのが、熊谷操氏の後継に成ることで有りました。
 本谷・園原財産区
二つの財産区を一つのものとすれば、もう財産区の括りで議員を担ぐ事は不要になる。(狡い男ですね、でもそうまでして議員に成りたいとする姿勢には有る面感心致しますが)
 そんな男が地区を牛耳れば
考える事は変わりませんね。「地区をまとめているのは自治会である」 岡庭一雄とつくり上げた共産党思考の協働自治組織、こんなに居心地の良い組織は有りませんでしょう。何でも自治会長(時雄)の言う通り動かせるんですからね。
 思い通り動かす
自治会長人事を握れば後は思い通り、自分の後継は園原部落の渋谷君、その次は本谷財産区から出さなきゃならない、であれば「当然思い通りに動く」人材が必要で、それはさして難しく無いと考えていたようです。               平成29年6月1日  
   
   誤算
 時雄君は「西の谷で俺のいう事を聞かない人間は誰もいない」と、高を括っていたのでしょうが、ところがどっこい、骨のある者は居たのであります。
 確かにたとえ自治会長に成ったとしても、時雄君に反しては改革など出来るはずは有りませんし、またそのように周りを固めてしまえば、孤立さえされてしまいます。
 次の自治会長を息のかかった者に
その人選は簡単でした。渋谷自治会長に「秀二にせよ」と耳打ちすればそれで終わり、その根回しを知らなくて、より良い自治会にしようと頑張る昨年度の会長は、やはり四面楚歌に成っていくのです。  
  
   義を見てせざるは勇無きなり
 今の世の中、こんな戯言と片付けられるでしょうが、西の谷ではそんな高尚な次元ではありません。 単純に極悪三人衆に牛耳られ、その身内や取り巻きがおもい通りにやっているだけでありましたからね。
 時雄君の恐ろしいところは、陰口でも、小さな声でも、聞こえていくと徹底してつぶす事であります。 それを叔父や操氏が同調するからして、誰も何も言うどころか、一緒になって批判非難を繰り返すのです。 平成29年6月3日   
   
   地区の役に着けない
 邪魔者は消せ! ではありませんが、昨年の自治会長は彼らにとって相当な邪魔者でありました。
時雄君にとっては「早く一年過ぎてくれ!」が一番であったでしょう。ですから徹底して改革方針に逆らわせたのです。
 副自治会長
熊谷秀二は父の従兄弟ですから、良くも悪くもハッキリ書き出しますが、なぜそこまで時雄君の言いなりになるのか? ということであります。
歳は時雄君より一つ下、性格は温厚で人の悪口は言わない。まあ、そこが欠点にもなってしまうんですが、言うべきことを言う立場がこの人には多くありました。 その一つでも勇気を出していたならば、本当にここまでは成っていなかったでしょう。
 いつも立ててきました。
園原部落では年長者であるし、若いときから否応なしに部落の付き合いをしてきています。私は、こと有るごとに彼に意見を求め、彼に相談する姿勢を部落の中でとってきています。 それは何よりも、部落を “うまく” やりたいからでありました。                     平成29年6月5日   
   
   決定的な出来事
 12年前の園原資料館建設計画は、門前屋の前に建設する予定でありました。時雄君はただ単に、章設計に設計をやらせない!だけが目的でありましたから、外堀から埋める方法で「建設場所不適」を言い出したのです。 まあそれも議員として自身の意見で言えばまだしも、羽場睦美氏を使い「建設場所は断層の上だから危険です」なんて、いつから羽場氏は地質学者になったのでしょうか?!
 白羽の矢は熊谷秀二の土地
時雄君がそうしているのは手に取るように分かっていましたし、熊谷操議員は阿智川の山口会長との一件を時雄君から詰められていましたから猫の子を借りてきたよりおとなしくありました。
 熊谷秀二の条件
時雄君から、「資料館の建設場所として俺が推薦する。田んぼを売ってくれないか」、「売ることは出来ない。先祖から引き継いでいる、貸すことなら考えんでもない」、「分かった」、「俺にとっては一番良い田んぼだ。その二枚を貸すと残った田んぼは1/3に成ってしまう。そんな少しで米なんか作れない、貸すなら全部の田んぼを借りてくれ」
 米作りをやめた
この話は直接聞いています。それは、「園原の歴史のためにも田んぼは残して欲しい」と、懇願に行ったときであります。                               平成29年6月7日  
  
   三種の神器 鏡 発掘される
 その時点ではまだ資料館でありました。それがなぜビジターセンターと成ってしまったのかは、執拗な時雄君の策略でありました。
 イニシアチブ
鶴巻荘の密談による園原資料館は、章設計と原建設による規定路線であり、それの議会側調整役が熊谷操議員でありました。
時雄君の “仕返し” は分かりすぎるくらい分かっておりましたが、熊谷操議員はこの時すでに力は落ちきっており、弱みを握られている性もあって時雄君のやることには何一つ言い返せませんでした。
「ふれあい館(現門前屋)の前はだめだ!」、と言い出せば、熊谷秀二の田んぼになるし、「資料館ではだめだ!」と言えば、動けない岡庭村長に代わり水上宗光と羽場睦美が博物館構想に走るし、陰の村長と言われる様になったのはこの頃からではないでしょうか。
 阿智川会長の山口氏でも、そこは互いに利用し合って「何になっても工事は原建設だから心配ない」とで手を握っているし、叔父であっても「園原に資料館なんて要らないよ」の考えでしたから、わけも無く思惑通りに進められたのであります。
 天が待ったをかけた
「信濃比叡の火渡り行事時に便所が足りない」を口実に、資料館から便所を切り離し、先行で事業化したのも時雄君でした。 これを水上宗光に指示し、公衆便所として早急に進めれば章設計は対応できないと思ったのではないでしょうか。                         平成29年6月9日   
   
   入札指名が届く
一般競争入札であればそう出来たのかもしれません。 鈴木設計に便所棟のプラン(羽場睦美の考え)を伝えたのは水上宗光です。
 談合の優先権利
私も務めている時代から何度か談合に出ていますので詳しく知っています。
町村においての談合は、既に決まっている設計事務所が声をかけ集まってもらいます。そしてそこでの決め手は、「うちで書いている」でありますので、談合と言うよりは連絡会議的なものでありました。
 鈴木設計の原君は聞いている
園原資料館が何処で書いているのかなんて事は、鈴木設計には当の昔から知っている事実。ですから原君は、「便所を切り離して別の名前にしても無理です」と水上宗光に伝え「何とかならんの?」に対して、「これから先はうちの社長(伊藤)でなければ」と返答している。(この件は、便所棟の入札直前に伊藤氏から電話が入り「話しに乗る」と言われ、話す事など何もないと拒否している)   
   
   便所棟落札
 鈴木設計の伊藤社長は私の性格を知っていますから、「話しに乗る」「予算はこれくらい」などリップサービスに従事しましたが、何の話だ!要らぬお世話だ! と、150万以上ある設計料を120万円で落札しました。
 工事は原建設で決まっていた。
これは建設業界の談合ですから、私のあずかり知らぬところです。 原建設の平沢社長は、「熊谷時雄議員は章設計が取ったとの事にとっても嫌な顔していた。気をつけた方が良いよ」と、わざわざ私に注進してくれました。(要らぬお世話ですが)                    平成29年6月11日
   
   工事が始まって即中止
 章設計が便所棟の設計を入札において落札しました。
水上宗光観光課長から「羽場睦美さんと打ち合わせをするので出てきて欲しい」と電話がありました。
指定された日時に出向きますと、役場2階にある別室へ案内されました。
 この部屋は羽場さん専用の室
まずびっくりしたのは、「羽場さん専用」の部屋が用意されていたことです。(現地域活性課横)
次に驚いたのが、その室の真ん中に「園児が積み上げたような細工」が置いてあった事であります。
 自慢げに話す羽場睦美氏
「私は何処そこの何々を見学に行き、詳しく調査してきた。これはそれを基にして園原資料館をまとめた模型です」敷地内に入るかどうかは素人なもので分かりませんが、屋根に特徴を持たせています。
 模型?・・?
「園原は文化財的な宝庫であるため、その当事のイメージで建設したい。私が見学した施設で一番気に入ったのが屋根です。おそらく板を敷き詰めたものだと思いますが、それをその通りに使って欲しい」
 訳が分からなくなりました。
何言ってんだろうこの人は? 積み木を見せて模型だという、まあこれは無視すればよいことだ。
 私は公衆便所の打ち合わせに来ているのである。
園原資料館の付帯便所ではないと確認し、火渡り行事と観光客のためにふれあい館(現門前屋)に付属される便所を落札しているのです。                                   平成29年6月13日
  
   水上宗光と時雄のはかりごと
 資料館から便所のみを切り離し別棟とする。
なぜこの様な計画を立てたのか、この時の羽場睦美さんは聞きたくもないのに自慢げに話してくれました。
 多弁な羽場氏
普段でもベラベラ話す人ですが、屈託がないとでも言いましょうか、相槌を打てないほどのまくし立てでありました。 それこそ園児が「僕が作った、僕が僕が・・」
 まあ何でも宜しいが、頼むから私の話も聞いていただきたい。
子供の話はやはり子供の発想でありました。
「園原資料館は神坂峠で発掘された遺跡を展示するもの、そこには章設計さんが言う通り収蔵庫が必要でその収蔵庫が無い限りは文化財(原孝雄)は貸し出さない」
「収蔵庫を設置するには予算が足りないと思う、だから便所を切り離し違う事業名で予算を取った」
 横で水上宗光課長があたふたするほどでありました。
それはそうでしょう、事業や予算を「私が決めている」と言っているのと同じことなんですからね。平成29年6月15日   
   
   横着は続く
 岡庭一雄はなぜここまで羽場睦美氏に入れ込んだのか?
全村博物館構想は、園原資料館を園原から取り上げるための方便でありました。
原孝雄文化財委員長(この時は副・長は弟)はそれなりの権威を持って埋蔵文化の大切さに取り組んでいましたから、園原の里で在っても、例え園原資料館であったにしても、無意味に造形を変えることには猛反対でありました。
 当初園原資料館建設地として計画したふれあい館(現門前屋)の前は、敷地段差を生かした、また、発掘には値しない盛り土地でありましたからすんなりといくかに思えましたが、時雄君の意趣返しにより熊谷秀二氏の土地へと移動した。
 怒る原孝雄文化財副委員長
「埋蔵文化を壊すまでして資料館を建てるなんてもってのほかだ!たとえ園原資料館であっても不要だ!」として反対したのは当然のことであります。
 目先をそらす
如何に岡庭村長であってもそこは “虎の尾” です。「資料館は建てません」と弁解し、早々と収蔵庫無しの観光案内センターとして方向転換したのです。
 クッション
羽場睦美さんはご覧の通り人当たりの良い人です。少し教養をちらつかせるのは愛嬌としましょう。
その様な方ですので三浦教育長をおだて、原孝雄さんには “へいこら” する役には最適であったろうと思います。そして何より、羽場睦美さんの先行きが安泰する大きな事業で有りましたからね。平成29年6月17日   
   
   未だに博物館構想を続ける疑問
 このときはまだ園原資料館でした。 岡庭村長は文化財を横において置く事が出来なくなり、「章よ、ちょっと相談だがなあ、名前だけ変えるわけにいかんか。園原の歴史を案内させる観光センター的な名前に、とりあえず変えてくれんか。いや中身はいいんだ、園原資料館のままで、いろいろ言う奴がおってな」 そんなことなら私に相談することでもなく、そちらで進めていただければ宜しいかと。
 公衆便所
文化財の人達は、「園原資料館から便所だけ切り離せ!」などとして公衆便所の名前で建設されるなんて考えてもいませんから、何も審議されることなく公衆便所の工事が始まったわけであります。
 ここでも文化財を騙したわけでありました。
考えてみれば酷く恐ろしいもんでしょう、熊谷時雄の執念深さは! 仕返しとか意趣返しとかは、普通の人間では考えられないような言葉ですから想像もできないと思います。
ただ単に、「章設計に設計をやらすな!」これだけのことで、多くの人を騙し、園原の遺跡史跡をデタラメにしてしまうんです。
羽場睦美氏も情けない人です。自分の仕事に成れば、魂まで売ってしまうんですからね。平成29年6月19日  
  
   神の警告
 「この便所はコンクリートにして地下にしたい。南側の一段下の田んぼを出入り口にして後は土に埋めてもらいたい」羽場睦美氏の幼稚な発想に手を焼きました。
「地下便所の上を通って資料館に入って行ける様にしたい。便所の明かり採りに丈夫なガラス張りの天井を設置して資料館に入る人がその上を歩き便所が覗けるようにしてほしい」「便所の内装は床も壁も天井も全部に板を張ってほしい。それも建材でなく、節がいくら有ってもよいから丸太を荒削りした原木のような感じにしてください」
 ???の連発でありました。
地下にして土をいきなり盛ることは出来ません。またその上をアプローチにするのであれば特殊な防水施工が必要で、それだけでも数百万は掛かるでしょう。
「羽場さんの言うとおりにしてください。予算は入札時に示してあるんですから予算内でやってください」と水上宗光課長。
丈夫なガラスは有りますが、なぜその様にガラス張りをしてその上を歩かせ、なお、便所が見えるようにしなければならないのですか?
「便所を地下にするとどこにあるか分からない。歩いていて下に便所があると分かるようにしたい。コンクリートなんだから土をかぶせても問題ないんではないか」と羽場睦美氏。    平成29年6月21日  
  
   前途多難
 予算内に治まりませんでした。
天井のガラス張りはさすがにあきらめさせましたが、水上課長の言い方は「羽場さんの言う事を聞かない」でありまして、それがいつまでも続くのでありました。
「便所の板張りは止めてほしい、自宅の壁にも使ったがよくない」この指示は水上課長からでありました。 一番苦労したのが「便所を土で埋めるように」との事であり、「花や花木をその上に植える」と言い出すのでありました。
 それはとても出来ない
そこまで来ますともう手が付けられません。「特殊な防水工法でなければ・・予算的に無理です・・」
そんなのは私のいい訳であるとして、「やってくれ」の一点張り。まあ水上課長にしては「鈴木設計にやれなんだ」「出来なきゃやめれば」の腹が見え見えでした。  
   厳しい予算
高度な防水は使えませんでしたが、アプローチをカラー舗装すると言う条件で、またそのカラー舗装は資料館工事時に追加工事とすることでまとめました。               平成29年6月23日  
   
   原建設が不落にするという
 岡庭村長から電話が来たのがその一件でありました。
今でもハッキリと覚えていますが、「おい、原が出来んと言っている。設計変更せよ」 そう言って私の携帯に電話が入りました。
それは下條ゴルフカントリーアウト5番ホールのティーアップした瞬間でありました。
 心配する同級生
その日は土曜日、同級生のゴルフコンペであり他村の職員もおりました。
話の内容に驚いて、「阿智村じゃそんなことをやるの?」 まさしくそうでありましょうが、岡庭一雄にとってはいつもの事ですから苦笑いするしかありませんでした。
 原建設の不正と癒着は以前に書いています。
さて、原で落札して工事が始まりました。 施工計画書なんて正式な書類は何も提出されず、いきなり土工事から入ったようでありました。
 私は何も知らない何も聞いていない
通常ではありえませんが、羽場睦美氏と打ち合わせて工事が始まっちゃったんです。 平成29年6月25日  
  
   鏡は見ていない
 入札に及び原建設の平沢社長に忠告しました。
山口会長は「園原の整備に当ててくれ」として阿智村に500万円寄付をした。園原資料館を原建設が工事受注すればそれは官製談合になってしまう。
 もう少し考えた行動をせよ
入札間近
に村長のところ行き「予算が合わない」と言い、それを受けて設計変更せよとして変更させられた。この様なことは必ず業界に知れ渡る。
 馬鹿はどこまで言っても馬鹿
「どうしようもない、俺がついていながら」と、後日私に山口会長は謝ったが、二代目は駄目だともこぼしていた。
 反省をするどころか逃げに入った平沢社長
それからと言うもの顔を合わせなくなりました。 施工計画書を提出してくださいと連絡してもなしのつぶて、知らないうちに土工事が始まったのです。
注意しましたが、「いや整地しているだけで、水上課長や羽場って言う人かなあ?何であの人がいるのか分からんけど現場は見てもらっているので」などとの言い訳の返答でありました。
 ですから、「鏡が出土した!」「工事は中止」「発掘しなければならない」などということは、それこそ人伝でありました。  
  
   園原の歴史を知らない文化財委員
 鏡が出土したときは正直驚きました。 「鏡?鏡ってなんだろう?」 一度も見たことは有りませんが、と言うより見せてもらえなかったのが現実でありました。
 文化財委員は原孝雄さんは、その鏡を見て何を思ったのでしょうか?
考古学に詳しい人ならば、「なぜ大和朝廷時代の鏡が園原で出土したのか!?」と、考えるのでは有りませんか。
 三種の神器
その鏡がどのような鏡であったかは原建設の平沢社長から聞きました。
 歴史の教科書に載っていた通りの鏡でありました。
私は真っ先に、「三種の神器の鏡」そのように思えてなりませんでした。それは父から、父方叔父から聞いた話を思い出したからであります。
 家に有った草薙の剣
刃渡り一尺八部、両刃の剣  神坂神社の真の奉り物  神刀として私の家に保管されていました。
それを知っていたからこそ、「三種の神器」のうちの一つ、鏡であると確信しました。 
   その鏡が発掘されたことにより、「ここには建設してはいけないという神の啓示ではないか」 平成29年6月29日  
  
   取り上げようとする文化財
 おそらくの事、原孝雄氏を中心とする文化財ではその鏡が何であるかは想像出来たかもしれないが、なぜそれが園原の、それも田んぼの土手から出たのかが理解出来なかったのだと思います。
 貴重すぎる物
理解出来ないからこそ、「この様な田んぼの土手に埋蔵されていた分けは無い、ここに捨てたのではないか」として簡単に方付けようとしました。 そこには、「何としても自分の手の内に」という、この種の世界の人達の “欲” が、見え隠れしておりました。
 熊谷秀二にかけ寄る
田んぼの土手に捨てられていた物で有れば、「発掘」しようと云うことには成らないはず。それが、「発掘します。費用は高額である。地主の熊谷秀二氏の負担」と追い込み、「鏡の所有権を放棄すれば、発掘費用400万円は全額村で見ます」と、持ちかけたのであります。   
   私も熊谷秀二氏に駆け寄った
あの鏡を見たか!歴史の教科書に載っている鏡だぞ、あんな貴重な物を放棄しちゃあだめだ。
「400万円なんて出せる分けが無い」 そうじゃないよ。発掘なんてする必要が無い。どちらにしてもそこに資料館を建設する事はない。                        平成29年7月1日   
   
   田んぼは借りてくれなきゃ困る
 彼はもうすでに耕作する気持ちが萎えていました。
それは無理も有りません。 先祖代々受け継がれてきた田んぼとおもえばこそ、せ取りが出来なくとも日曜百姓を続けてきているのです。
そこに「園原資料館のために田んぼを貸してくれ」「これは村からのお願いだ」とくれば、言い訳も付けやすいし、家族のためを思えばあきらめもつくと言うものです。
 踏み込めない
一旦決めてしまったこと、それも自分からの要求ではない。 年貢で持って米を買ってもお釣りが来る。
こんな山の中ではありがたい話と成っているのであります。
そんな状況で、「鏡が出たから資料館は中止」なんてことになったらどうしよう、が彼の考え方の中心となっておりました。  
   俺が借りる
文化財のやり方が余りにもあくどく、そこに時雄の思惑が絡み、彼は二進も三進も行かない、どうしたらよいかさえ考え付かない所に「貴重な鏡だ」なんて言われても “そこ” がどれほどかなんて判断しようがない。
 年貢が9万円なら俺が10万円を払って借りる。俺が田んぼを作る、だから鏡は放棄しちゃあ駄目だ!
黙っているだけであった。                           平成29年7月3日  
  
   交差する欲と欲
 いたち返しとはこのことか、どちらに転んでも欲が裏に在るではないか
鏡が取り上げられた事は、園原の里が世に出て行かなくなったことであります。
何も有形無形で園原のために、なんて考えているわけでは有りませんが、余りにも園原に無知識・無関心な者が、その部分だけを切り取っていくことに失望をおぼえておりました。  
  
   原孝雄さんが個人的な考えでなく、園原を中心に考えていてくれたならば
そもそもこの人が一番のガンでありました。
神坂峠での遺物が開膳寺に預けられているのならば、園原に資料館を造り貴重な遺物を返していただきたい。
この願いを黒柳村長が聞き入れてくれその道が開けたら、「こんな貴重なものを園原において誰が管理するのだ」と猛反対で中止された。
 ふれあい館(現門前屋)が出来たときも収蔵庫を設置して開膳寺からここへとお願いしたら、「こんな貴重なものは資料館でもない建物に置くわけにいかん」として、庁舎の二階に収蔵保管庫を設けて取り上げてしまった。(現在は元信金駒場支店内)                   平成29年7月5日  
  
   今度は鏡を取り上げた
 これから書く話はタブーではありませんので書いちゃいますが、先日山本幸三地方創生相が「学芸員はガン。一掃しないと」と言う発言が物議をかもしたことがありました。
たしかに、言っていることと現状の差が見え辛く、また、専門分野であるとの先入観が多くの人に有るため長くは取り上げられず尻すぼみになってしまいました。
 違う観点から一言
このニュースは教育委員会などに従事した公務員の方から見れば、少し違うとらえ方をされたのではないかと思います。
 学芸員とは博物館法における国家試験資格を有し、博物及び遺跡・遺物などの総合的な取り扱い資格者であります。 一般住民からみれば「専門的な分野での担当者」程度でありますが、実はかなりの権限を持っているということになります。   
   不埒な学芸員
文化財委員としてもよいでしょう、個人的な考えの学芸員が居たとします。
「ここは伝説の里です。ここには二階建てのような高い建物は相応しくありません」、「景観が大切です。原風景を守りましょう」と声を上げました。                 平成29年7月7日   
  
   次の段階
 便所を地面下とする事が景観を守ること?なのでしょうか。
「資料館の屋根は、石置きの昔ながらの屋根が一番伝説の里に似合う!」
軒高を押さえ建物の高ささえ低くすれば、園原の景観に合うと言う。昭和初期まで在った杮葺(こけらふき)の石置き屋根が園原伝説の里に合うと言う。
 園原の伝説は伝教太師・大和朝廷時代であり、江戸後期の話しではないのであります。
この様に、余りにも “馬鹿な話し” を知ったかぶりで話される「学芸員」が居たことが園原の里の不幸で有りました。
 もう一つ次の段階
岡庭一雄や熊谷時雄の言いなりで有ることの中で、自身の欲が絡みあい、何ともはやお粗末すぎる展開となって行くのでありました。
 鏡が出土したことにより、その所有権を放棄させようとする事は原孝雄さんの私欲でありましたが、そこに群がるいくつもの思惑は “その事” を助けることになりました。        平成29年7月9日   
   
   活断層だ!
 鏡が出土したことで工事は中断され、少し時が流れました。
原建設などは、工事が中止に成ることだけを心配しているだけであり、岡庭村長に工事の再開を執拗に迫っておりました。
山口会長にとって工事の中止はとんでもない事で「寄付した500万」が宙に浮くことだけが気がかりであったかと。
 三者三様
 鏡の出土は、多くの方向転換が余儀なくされることになりました。
一番喜んだのが時雄君でした。それは「章設計にやらせない」が目に見えてきたからであります。
岡庭村長や山口会長は、鶴巻荘での密室約束がどんな形であれ遂行されホッとしていたところに、「鏡が出たから工事が中止」となったら “黙阿弥” です。
 埋蔵文化の発掘
「建設地を発掘する」 このことは文化財にとっては当たり前の方向であり、それがための文化財であります。また、岡庭村長にとっては何とか工事の再開をさせるための通過点でもありました。
 発掘開始
それから何日が経ちましたでしょうか、ほとんどの発掘は順調に進み遺構などが多く出土をいたしました。
 その時、とんでもない話が起き上がりました。「活断層がある!!」
この発言は、なんと! あの羽場睦美氏からでありました。           平成29年7月11日  
  
   無教養の羽場睦美氏
 この人の話し方には、ある種の “詐欺師” 的な匂いを感じます。
正確に言えば「活断層の跡、痕跡ではないか!」と言ったのであります。
 それは大変
遺構の発掘で活断層が発見された?! となれば大変な状況であり、場合によっては埋蔵文化も何もかも吹っ飛んでしまいそうな発見であります。
 染み?
現場に飛んでいきました。
どこだどこだ、掘り返された跡を覗いてもどこにも “それ” は無い。 おかしいな? あの羽場さんが言ったことだから疑わしくもあるが、少なくとも “それらしきもの” は有るはずだ。
 聞いてみた
すみません。断層跡があると聞きましたが、どこでしょうか? 見たこともないその人は作業をしているのか片付けているのか分からないが、「はあ?知りませんが」
あのう、ここにかけてあるビニルシートはまくっても良いですか? 「いいですよ」 平成29年7月13日   
  
   これは?!
 「炭焼き吉次の黄金伝説は炭頭でなく砂鉄の鋳造ではなかったのか!?」と見えを切って砂鉄作りを実験した。それは南信州を呼びつけて盛大に行われた。ようだが、結果は掲載されなくありました。
後日お行きあいした時にそれと無く聞いてみましたら、「・・あ、ん・・」でありました。
 蛇が出るか蛇が出るか?
ビニルシートをまくりあげました。 はたしてそれは!?
「ん?・・んん??」 何も無い? ホント何も無い! これはおかしい、このビニルシートの下ではないのか。
 もう一度発掘跡を見直しました。
おかしいなあ、ないなあ  何度見直してもそれらしきはなにも有りません。
そうだよな、発掘で断層痕が見つかるなんて有り得ないもんな、たかだか1m程度の掘削で断層が出る分けが無く、土質もすべて耕作土の黒土しか見えていない。   
   
   念のため
 ここはだんだん田んぼで有り、土手は1m以上の段差があります。先ほどのビニルシートを被せて在る処は土手下である。 念のためもう一度シートをまくってみました。        平成29年7月15日  
  
   まさかと思うが
 最初にビニルシートを捲り上げたとき、少し気になるものがありましたので、「まさかあれと間違えているわけじゃないよな」てな気持ちで念のためもう一度確認したのでありました。
 ごま油の染み
耕土面から30cmくらい下がった所から、下に向って巾2,3cm、長さ40cmくらいの土質の違う箇所がありました。 そのほとんどは黒土であり、下部は赤土に達しておりました。
それは、何かが染みこんで出来たような文様であり少し渦巻いても居ました。
 こんなものと間違える分けが無い!
これを見て断層? まさかとも思えるくらいの “染み” でありましたから、けして間違えたのだとは考えずにおりまして、後日羽場さんに出会ったときに、「羽場さん、断層痕はどうなりましたか?私見に行ったのだけれど分からなかったのですが」と聞いたところ、「ああ、あれ!、あれは違いました!」と、臆面も無く言うものですから、「あのビニルシートの下ですよね?」と少しいやみをこめて言いましたが、「ええ、違いました」と、これから用事があるのでまたと言い残していきました。  
   岡庭一雄村長に言わしめれば
「大学の助教授だ大したもんだ。阿智村にこの様な人が居ることはありがたい」だそうです。平成29年7月17日  
  
   博物館構想と全村博物館
 もともとは園原資料館でありました。それを時雄君が取り上げて方向転換させたのが「博物館構想」でありました。
 意図しないが願っても無い進め方
岡庭村長は園原資料館を私から取り上げるにはかなり躊躇が有りましたが、時雄君との仲ではどうする事もできずにおりました。
 現れた羽場睦美氏
羽場睦美氏が岡庭村長に気に入られ(?)博物館構想をあげるまでになった訳も、実は私が行動した事によります。
以前にも書き出しましたが、時雄君の暴走で水子地蔵の落石事故があったとき、私は浪合村まで出向き羽場睦美氏に相談しています。
そのときの羽場氏の位置は阿智村としても岡庭村長としても殆ど何も無く、「浪合の伊藤村長からの紹介だ」程度で阿智村に営業をしていた頃と思います。
 時雄君とは距離を置いていた
まあ、時雄君と合う人は殆ど居ませんから距離を置くも何も無かったとは思いますが、考え方は真逆であったかと思います。
 私は羽場さんの活動自体は見ており、頑張ってやっているなあの思いから、「この人なら遺跡史跡を大事にしてくれそうだ。この人なら分かってくれて力になってくれるかも」として、落石事故の相談に行っているのです。                               平成29年7月19日   
   
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   羽場さんは動いてくれた
 羽場さんは動いてくれたと思います。そして取り込まれてしまいました。
時雄君と阿智川の山口会長による水子地蔵設置に反対して園原部落の中で話しを付けようとしている矢先、それを無視して強引に工事を進めて落石事故が起きた。
村長が岡庭で岡庭一雄の名前で水子地蔵まで出来ている状況で有れば誰も私の話しを聞かないし、熊谷直勝議長においても受け付けてもくれなかった。
 四面楚歌+
本当に誰もが無視をした。中村弁護士に相談しても追い払れ、あまつさえ「それが権力だ」と原弁護士までに言われる始末。 この人ならと最後に相談したのが羽場睦美さんでありました。
 泳ぎがうまい
羽場さんは羽場さんの考えで有ったようです。
確かに第三者ではありますが、私が一番お願いした事は「園原の歴史に水子地蔵は受け入れない」でありました。
 落石事故は事故として始末をつける以外にない。ですから、それを切っ掛けとして水子地蔵設置を阻止しようと相談したのですが                          平成29年7月21日   
   
  音沙汰が無い
 確かに気に成っておりました。「落とし所が難しい」との言葉が耳に残っていたからであります。
数日たっても何の連絡もないためこちらから羽場さんの事務所を訪れましたが、その時すでに思いもかけない方向へ進もうとしていました。
 総体的に考える
水子地蔵云々でそこだけを見るのではなく、園原が歴史的にどの様な位置付けに在るのか、阿智村の中で東山道が分っているところが少ない。東山道が・・駒場と言う宿場町が・・
 混乱してきた。何を言いたいのか?
私には言い分けとしか聞こえませんでした。 こちらから振ってみました。
 水子地蔵の件を時雄さんはどう答えましたか?
「時雄さんと充分に話が出来ない。話そうとしたが取りつく島がなかった」  がっかりしたしました。そして嫌な予感も同時に起きてしまいました。                 平成29年7月23日  
  
   自分の仕事
 羽場睦美さん、この人は “はげしい” 人でありました。
熊谷時雄議員の恐ろしい所は感じていたのでしょうし、その中で右往左往する岡庭村長を見て身の振り方を決めたのでしょうが、どうも人として一番な “信用” を無くしてしまった様であります。
 これは金になる
野外活動センターとか何とか、これで生計は立たない事は傍から見てもでありますが、だからといってそこを考える人に何の魅力を感じるのでしょう。
 欧州旅行で世間も分かってしまったが、夢を語る人が金を想像させてはいけませんね。  
  
   博物館構想は羽場睦美氏の考え
そのとき羽場さんはこう言った。
「章設計さん、私はこの話をもっと多くの人を巻き込んだ方がよいと考えています」
その様に言われれば時雄君の悪さを正してくれるんだと期待してしまう。
「資料館、それも園原資料館という小さな器の中で進めるからこうなってしまう」
ん? 何を言い出すのか?                          平成29年7月25日  
  
   横道過ぎる
 これではまったく違う話しの “講釈” ではないか
園原の歴史は古道東山道の歴史、園原だけを紹介する資料館では意味を成さない。東山道は中関でも見つかっているし、網掛け山の麓でも整備されている。これらをつなぎ合わせた形の中で大々的な展開をするべきで、それは資料館という一部で考える事ではない。飯田下伊那全部を巻き込んでその世界の人達と勧める方が将来の阿智村のためになる。それには博物館構想が必要であり、それを前面に出して取り組めるよう岡庭村長とも話したところだ。それにそうなれば、時雄さんも文句を言う所でないし・・
 頭がボーっとしてきた
羽場睦美氏にとても良い “ネタ” を与えたようである。
第一に、園原の歴史は日本武尊(ヤマトタケル)の歴史であり、東山道など後の世の話しではありません。
博物館と資料館はその内容において違いが有り、歴史的な資料などを収蔵保管するものが資料館であるため、史跡遺跡、それにまつわる遺物などが存在する園原には資料館しか望めるものは有りません。         平成29年7月27日   
   
   羽場氏が博物館を進める理由
 このとき羽場睦美さんは何を思ったのか? ・・・「これで飯が喰える」
こういう閃きはさすがのものがありますね。確かにその通りです。
話しを広げるほど巨大化することであり、岡庭一雄村長は時雄君から詰められて板ばさみ状態でありましたから、渡りに船どころではありません。自身が表に立たなくとも羽場さん自らが、落石事故の始末をしてくれるんですからね。
 人の金
羽場さんは知っていました。「博物館と資料館は別物」「博物館は金が掛かる」「市町村レベルでは扱えない」・・阿智村に博物館は出来ない!と最初から分かっていたのでありました。
岡庭村長が抱えている問題(落石事故で自身の水子地蔵設置が明らかとなる)も伝えていましたから、岡庭村長にどのように “もちかけ ればよいか” もね。
 赤子のごとく
この時、岡庭一雄は村長たる分別を忘れ、羽場睦美を懐に抱えようと決めました。
思い通りになる岡庭一雄を見て、羽場さんは大いなる自信をもたれたでしょう。  
  
   村民の皆さん!
 この経過により阿智村博物館構想が生まれ、そして全村博物館として今尚続いておりますが、今までにおいてどの程度の費用対効果がありましたでしょうか?
 博物館構想において岡庭村長は村の予算をいかほど投下されたのでしょうか?
欧州研修はその成果の中で報告書が提出されたでありましょうか? その報告書は現存していますか?
発掘費用に400万とも700万円もかけたような事は聞こえてきましたが、報告書が現存しているとは確認できませんでした。
 長年掛けた(費用も掛けた)博物館構想は園原ビジターセンター(観光案内施設?)となっています。
これって、「あり?」なんですか? 羽場さんはどこにお金を使ったのでしょう?
 羽場睦美氏が長い間自治協議会長を続け、自治協議会館まで要求され建設されています。
歴史的考察だけで、史跡遺跡伝説の本質を知らない羽場睦美氏が、知らないうちに文化財審議委員会の会長ではありませんか!?
知らないうちに全村博物館構想は消え去り、全村博物館協会が発足しています。(2013年)
 長い間予算投下されてきた全村博物館構想を閉めるに渡り、監査を受けておられるでしょうか?  
  
   羽場睦美氏と岡庭一雄の関わりと村の金の使われ方には、とても大きな疑惑が存在します。
このサイトにおいて岡庭村政の不正や犯罪を書き出したことにより、二人のただならぬ関係が村民の目にさらされました。また、天皇陛下来村直前、満蒙開拓記念館において岡庭一雄・熊谷時雄・佐々木幸仁の不正三人組が集まって善後策を話し合った事は羽場睦美氏が手引きした!と村民から情報がもたらせましたが、この件もその時点で長野県警に届いています。   
   
   羽場睦美氏と岡庭一雄の書き出しはこれまでになりますが、ここで書き出しましても何も解決する事ではありません。
村民が疑問を持ち、議会や行政に伝える事によって初めて取り組めるものでありますし、明らかにしなければならないことであります。                         平成29年7月29日  
  
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 野熊の庄 月川
 今年の2月、叔父の長男宛に手紙を書きました。 それは、このままでは月川がつぶれてしまうと思ったからであります。   
   
   昨年の4月に阿智村議会議員に公開を求めて質問した事項や、村長に提出してある告発書において野熊の庄月川の件は一切書き出しておりません。
なぜかと言えば、野熊の庄月川の件を質問すれば、告発すれば叔父が逮捕されると分かっていたからに他なりません。
 危険な兆候
5年ほど前の事でしょうか、叔父は大病をして緊急手術を受けております。 手術は成功して安堵はしたものの、時が経つにつれ少し?なところが身内から聞こえてきました。
 被害妄想?
「老害だ!」と叔父の従兄弟も言い出す始末。取りようによっては世間はもっと感じていたのかもしれません。
 人生の大半を叔父と関わり、口先だけでない叔父の行動は尊敬のまなざしで見ておりましたが、やはり歳には勝てないものかと悔しくもありました。                平成29年7月31日  
  
   常識が判断できない
 これには熊谷時雄が多く影響していました。
大病した事で焦りが出てきたのでしょう。一番は子供の事だと思いますが、親が子を思う気持ちに誰も口は挟めません。また、口を挟むのであればそれが身内ではないでしょうか。
 一度も口にしない
私は叔父の子供に口出しをした事は一度もありませんし、口出しするような子供でもありません。
しかし、そういうことに付け込む人間もいます。
 以前に書いておりますが、月川旅館の経営は次男にやらせたいと話がありました。それには何も異存は無く、「私の株は一緒に働く従兄弟(叔母の子供)に譲る」と公言しておりました。
 焚きつける人
章文に取られてしまう・・・
父が倒れ、母までもが倒れてしまったとき、叔父は自宅を訪れてくれました。
 悲しくありました
「親が二人倒れて、二人の介護を続けているのに何もしてやれない」といって分厚い見舞いのし袋が渡されました。 私はそれを見て悲しくなりました。                平成29年8月2日   
   
   次男にやらせてくれ
 見るからに大金が入っていると感じました。 なぜか、見放されてしまうのではと感じてしまい、とても悲しい気持ちになりました。
 叔母(母の妹)と義叔母(叔父の妻)さんは1週間に一度は母を見舞いに来てくれました。朝夕に母の顔を見ると「今日は叔母が来てくれた。きょうは義叔母が来たよ」と、それはうれしい顔をしていました。
私はそれだけが一番の事であり、感謝しても仕切れない身内のありがたさでありました。
叔父はそれなりに気を使ってくれたのでしょうが、私には “その見舞い” は違う意味として受け取りました。
 何故今それを口にするのか
何か話しそうな雰囲気であり、それが父母の状態についてでない事は感じておりましたが、私にはある面それが本心なのだと気づかされたのです。
 俺はもう歳だ
平成20年1月29日、まだ寒い日のことであります。
「昨日、農協のお前の口座に100万円振り込んだ。この前設計料の足しにと入れた金と合わせてこれでちょうど500万に成る」 平成29年8月4日  
  
   裁判の真っ最中
 平成20年3月15日、父は他界している。   
   
   何の金?
 どういうこと?何の金? どなたも疑問を持たれると思います。
この金の話こそが、岡庭一雄と熊谷時雄、そして叔父の癒着と不正を結びつける “証拠” なのであります。
 動かぬ証拠
警察の言うところの証拠とは、「事実が証明される物的証拠」と、その事実に行き着く証拠とが有るのではないでしょうか。
事実が証明される物的証拠において、事実に行き着く証拠とは『金の動き』でありましょう。   
   
   以前にさわり程度に書いておりますので、なるべく端的に書いていきます。
 平成19年4月2日、みなみ信州農業協同組合阿智園原支所に叔父渋谷秀逸は現金400万円を持参し、私の個人口座に振り込みました。
 叔父はなぜ400万円もの大金を私の口座に振り込んだのでしょう!?       平成29年8月6日  
  
   伏線
 園原資料館が鏡が発掘された事で中止された。それがビジターセンターと言う名のもとで復活した。
実はそれが熊谷時雄と岡庭一雄の章設計外しの謀であった。
 叔父にはその時点ですべて打ち明けています。
さすがの叔父もこの一件では二人の行動に異常さを覚え、熊谷時雄に「お前は議員を辞めるべきだ」と注進した。(この一件、熊谷逸男氏も知っています)
 開き直る時雄
これまでに叔父は二人に深く関与しすぎており、また、私が時雄と叔父の財産区の不正を良しとしていない事で板ばさみ状態でありました。
 官製談合で警察に告発する
私も感情的に成っており、鈴木設計と岡庭一雄(水上宗光)村長、熊谷時雄議員の官製談合の証拠を示し、警察に告発するとして叔父に相談した。
 困り果てる叔父
園原資料館に関する官製談合に叔父は直接関与していないが、それまでの経過に幾つかの不正と犯罪は当然あった。それが表に出て行く事は言わなくても分かる事であった。      平成29年8月6日   
  
   深夜2時、叔父の家
 「岡庭一雄に注進してほしい」 鏡が発掘され遺構が発見された。それを壊してまでビジターセンター成るものを建てて何の意味があるのか。
仮に、園原資料館であったにしてもそこに建設するなどという事はあり得ない。
章設計が設計できる出来ないなどとのくだらない話は時雄レベルの事、そんな事で不正やまして官製談合などという恐ろしい犯罪を犯そうとしている。
そこまで言って叔父に頭を下げた。
 だらしない叔父
「俺にはできない」 か細い声でそう言った。
叔父が言えない訳は知り過ぎていたが、それでも叔父は動いてくれると信じていました。
私の叔父である。社会に出てからも叔父には甘えてきた。父に言えないことも相談してきた叔父である。
叔父が間違っていると思うところは遠慮なく言ってきた。それは私の叔父であるからだ。平成29年8月10日   
   
   警察には訴えない
 次元の低い者に何を言っても無駄であるが、仮にも阿智村の村長と議員である。このお粗末な奴らに “園原の歴史” が壊されそうになっている。
 この事を考えられる者は、西の谷にはおろか阿智村中に居ないのでありました。   
   
   最後の賭け
 「村を守れ!」とした言葉とともに、岡庭一雄の犯罪を書き記した文書を直に渡し付けた翌日に叔父に電話を入れたのである。
岡庭一雄に文書を渡したこと、そこに書いてある内容、それらを話して「時雄は議員を辞めるべきだ」として叔父に伝えたのでありました。
 それでも辞めない熊谷時雄
「章文はきちがいだ!」そう言い返されたという。 おじは「俺は何にもしてやれなかった。章設計は設計料をもらえなくなったんじゃないか、いくらだ、せめてその金は俺が出してやる」
翌日その様に電話が有りました。                       平成29年8月12日   
   
   それとこれは関係ない
 それは関係ない。おいさまが気を使う事ではないです。
「いいんだ、月川で残して来た金が有る。いままでも東山道(熊谷智徳氏経営飲食店)に500万入れてあるし、他にも使ってきている。気にする事は無いいくらだ」
 そう聞いたとき、(やはりそうか裏金をつくって来たんだ)と変な勘ぐりを入れてしまいました。同時に、智徳さんに500万入れてあるという事は、時雄がひるがみの森経営破たんの時にもおそらく500万入れたんだと気が付きました。
 阿智村に請求したのは350万だけど、「そうか分った」
それから2、3時間は経ったろうか、叔父からまた電話が有りました。「今、400万円を農協のお前の口座に振り込んだ」 400万円? そんなに?なんで? 「いいんだ、気にするな」
 私はずるい
月川旅館は4人がまったく同じ投資で同じ条件で始めた事業、社長は叔父であるが、年に2回株主総会をかねて役員会を行ってきていました。
 数年で叔父の脱税に気付き、その金がかなり高額と成っていること、株増資にも使われてきたがそのほとんどは叔父のポケットに入っていることは想像できていた。
それは気にしなかったが、いつかは税務署が入るだろう、そして追徴課税を受けるだろう。そこまでいかないと収まらないなと考えていました。                   平成29年8月14日   
   国税局が入った後
驚くなかれ、今の話し、国税局が月川旅館に入り、脱税として挙げられた後の話しで有ります。   
   
   叔父の考え
 月川旅館の経営を次男にやらせるとして来た事は、少なくとも私は良しとしていましたが、前主任を追い出してまで次男を入れたこと、またそれらの話しが役員会も無しで叔父の独断で決められてきたことに一抹の不安を感じておりました。
 役員会を一度も開かない
国税局に入られ追徴課税を受けたとしても、何も話しはありませんでした。
この時点では株主兼役員は三名しかおりません。叔父の社長・支配人の熊谷智徳氏・そして常務の私
(この400万円の件は、後ほど月川旅館指定管理者のもめ事に大きく関わってきます)  
   
 社名変更
 国税局に摘発されたとき、園原の里開発株式会社から株式会社野熊の庄月川に社名変更が成されていました。
実はこの社名変更は何も知らされていなく、「なぜ熊谷時雄を社長としたのか?」と叔父に聞いた三年前初めて知りました。
 なぜ社名変更したのか、変更しなければ成らなかったのか? なぜ役員会も無しで叔父が独断で行ったのか? なぜ減資まで行ったのか?                       平成29年8月16日   
   
   国庫全額補助事業
 月川旅館の施設は国の物、園原の里開発株式会社は委託管理契約を結んでいる。
(パークランドは戸沢観光、ふれあい館は園原観光が委託管理)
 全額国庫補助を受けて委託管理している会社が「脱税した」のであります。
??であると思いますが、民間の脱税より “あくどく” 感じませんか。
 示しがつかない!
当初は飯田税務署からだと思いますが、あれやこれやで手が付かなかったのか、また、幾つもの脱税に関与していたのかはともかくも、国税局が入ったのはたしかな事実であります。
民間において飯田税務署であり、また、初犯であれば始末書と追徴課税で済むかもしれないが、国の金で造った施設の経営者(代表取締役)が脱税したのですから、追徴課税を払えばよいと言う事には成らないでしょうね。
 仮定の話しではない
園原の里開発株式会社を残すのであれば、社長は続けれないでしょう。そうなれば、次男に継がせるとしても困難となること、それにあわせ、「今まで隠してきた金」「これからも隠せる金」がパーと成ってしまう。 社長の座、これだけは絶対に死守せねばならない! そう考えたのでしょう。平成29年8月18日   
  
   岡庭一雄村長の出番
 もう一つの問題点、それは今回の『指定管理者解除』とまったく同じことで有ります。
国の全額補助の施設において脱税をした。それも国税局が入った。
この事実の中で、「園原の里開発株式会社の委託管理解除」は不可欠ということであります。
 最大のピンチ
叔父側からみれば最大のピンチで有りますが、社会の中では当たり前の処分で有ります。
(どうもその辺が、世間の人が疎いところがありますね)
 時雄君にとっては願っても無いこと!
それは何故かといいますと、この時、「秀逸さは章文の味方をした。俺は月川から手を引く」として去って行ったすぐ後で有ったからであります。   
   
   水子地蔵においても数々の不正が有った。私はこの件で県警に告発している。県警も園原の水子地蔵の現場を確認している。   
   
   園原の人達が知らないのに水子地蔵の工事が始まっていた。 私は時雄君の話しに疑問を抱き、設置反対の先頭に立った。                             平成29年8月20日  
  
   昼神
温泉組合
 水子地蔵は昼神温泉組合の寄付事業だと時雄君は説明した。
当時の昼神温泉組合の組合長はホテル伊那
華の社長だという、社長に面会を申し込んだが会ってもくれない。仕方なしにホテル光風館の社長熊谷智徳氏に話を聞きました。
 そんな話は知らない
第一報は「水子地蔵?そんな話は昼神温泉組合では聞いていない」、「もしかしたら時雄君たちがホテル阿智川たち一部の者と違う温泉組合を作っているらしいからそっちの話じゃ無いの?」
 ホテル伊那華との確執
昼神温泉の勢力地図はなんと言ってもその頂点にホテル阿智川が存在している。
簡単に言えば、ホテル伊那華上原社長とホテル阿智川山口会長が合わないのだ。(それは当然のこと)
 そこで動き回れるのが時雄君と言うわけで有ります。
時雄君は村会議員でもある。その村会議員にしてくれた山口会長の考え方の中で立場作りをしていくことは、時雄君にとっては当たり前のこと。                    平成29年8月22日   
   
   嘘八百
 時雄君は昼神温泉組合の寄付事業だと言った。1,000万円園原に寄付をする、この金で六地蔵を(水子地蔵)を作るという。(この時点で、賽の河原と水子地蔵は出来上がっている)
 水子地蔵の土地代に250万円を要している。山口会長が立て替えたとし、その回収に「一体20万円の水子地蔵を20体以上売りつける」としたのである。
 会長もせこい
山口会長であれば「250万円なんて金じゃ無い」と、世間は思うものであります。 大実業家であれば懐の深いところを示さなければね。 この辺が「阿智村に500万円寄付」その回収をとして「園原ビジターセンター」を岡庭に造らせた。ことになるのであります。
 宗教なら許されるのか
岡庭一雄村長は何を思ったのか? 岡庭一雄の名前が入った水子地蔵はそのときすでに設置されていたが、村長ともあろうものがこの様な寄付要請を受けて対応する理由はお察しの通り「他にあった」と思われてしまうではないか。(水子地蔵は岡庭氏個人に必要なものでもあったのかな。今では観光名所です)
 焦った熊谷時雄と山口会長
水子地蔵と賽の河原は出来ていたが、六地蔵が出来ていなくありました。 水子地蔵が前面に出てしまえば六地蔵として進めてきたことと辻褄が合わなくなると考えたのでしょう。
今から六地蔵を造り上げても間に合わないとも考えたのだと思います。それに十分な金は集まっていたことも事実であったでしょう。                         平成29年8月24日  
  
    六地蔵は止める
 「章文がうるさい事を言っている、早く手を打たなきゃ拙い事に成る」時雄君はそう言って山口会長をせかした。
「とにかく早くやれ」、「そうするしかない。この際六地蔵は止めて今在る地蔵を六地蔵とすればどうだろうか」、「分かった。お前の方から工事を指示せよ」
 急いては事を仕損じる
見てくれだけで中身が無いものはいつか崩れてしまうもの、先を待たずしてもそれはすぐに表れてしまいました。
 落石事故
1m近くあろうかとも思えるその石は、20m以上もの高低差がある急な斜面を転げ落ち、何あろうか隣家の居間に飛び込んだのであります。
 災難ではない
偶然の事故ではありません。偶然であったのは、叔父(熊谷泰人市会議員の父)が出来上がったばかしの新居に吉日を選んで仮寝していたために無事であったことでした。         平成29年8月26日  
  
   落石事故はなぜ起きたのか
 事故でありますから、当然起こるべくして起きたのであります。
人の金を集めるのが得意な時雄君、入ったお金を出し渋るのは二人の共通事項となれば、それもう明らかなことで、「値切る」のでありました。
 水子地蔵は同じものを20体も30体も作っていたわけですが、これは言わば既製品です。一体当たり2,3万円でしょう。となれば、次に “浮かす” 材料は何でありましょうや?
それは言わずと知れた「工事費用」であります。
 嘆いた後藤造園
落石事故の後、落ちてきた石をその日のうちに粉砕して方つけたのは後藤造園でありました。
私は隣家でもある熊谷泰人を伴って現場を再確認にいきました。
「現場にて事故状況を説明せよ!」と、後藤造園に電話を入れてた訳であります。 平成29年8月28日  
  
   しゃべるはしゃべる
 後藤造園とはふれあい館(現門前屋)の駐車場で落ち合いました。
事故を起こした当事者ですからそれは殊勝な態度でありましたが、言い訳ばかしも無理は有りません。  
  
   事故のあらまし
 水子地蔵と賽の河原は設置されておりましたが、賽の河原はすでに荒れ果てておりました。 それは、黒ビニルシートを防水代わりに敷き詰め、その上に砂・大小小石を申し訳程度に被せてあるだけのもの、わずかな雨により流れ出ておりました。
身の丈九尺は有ろうかとも思えるその地蔵はコンクリートの基礎に仮置き状態でありました。
時雄君の指示で急きょ完成を焦ったのでありましょうが、その地蔵の基礎周りに石を積み上げようとしていたのであります。                             平成29年8月30日   
   
   問題は石積みに使おうとした石
 見上げた身の丈は九尺と思えたが下のコンクリート基礎はまだ未完成、その周りに三尺程度石を積み上げる工事をしていたのでありました。
 急いては事をし損じるの見本
後藤造園は石屋ではありません。毛の生えた庭師?程度でしょう。 素人が考えても分かりそうなものであるが、石積みをしているわけ
ではありませんでした。
 転がってきた石を見たときから気づいておりましたが、「丸い大きな石」で有ります。
丸い大きな石で基礎高三尺分を囲っているだけでありました。
 積んでいるんでなく置いているだけであります。
「予算が無かった。会長はこれしか金をくれん、だから丸石を用意した」、すでに「俺には責任がない」と言わんばかしでありました。                         平成29年9月1日   
  
   丸い石だから転がった
 いい加減な人達は、いい加減な工事を指示し、いい加減な工事をします。
丸い石を置くだけですから転がるのは当たり前でしょう。だいたいにして、丸い大きな石を石積みに使う後藤造園もデタラメであれば、その扱い方も全くもっていい加減でありました。
 傾斜地に在る水子地蔵
二枚の田んぼを緩やかな傾斜地に造成しそれは造られていました。その大きな地蔵は伝教太師像の3m下に立っておりますが、そこに使おうとした大きな丸石はダンプに載せられ伝教太師像の在る場まで運ばれていました。
 どんぐりころころ
まさかと思いました。 ダンプに載せられた大きな丸石は地蔵の真後ろで降ろされたのです。それもダンプでいきなり落とされたのです。
馬鹿でも有るまい。 勢いよく荷台から落とされたその石は、3m下まで落下したかと思えばその勢いで民家に向かい落下し始めたのです。                       平成29年9月3日   
   
   不幸中の幸い
 「おーい!石が落ちたぞーおーい!おーい!」 大きな声で叫んだという
落ちていく先には三軒の家が在りました。 真っ直ぐ落ちればそこにはおばあさんが居た。おばあさんには叫ぶ声が聞こえたという。 「そらあもうびっくりしたに、おーいおーいと声が聞こえる。誰か呼んでいるのかなと思ったら、それはでかい音がしてなあ・・なんだか分からんがおっかなかったに

 幸いにもそのおばあさんが居る家は転がる間にずれたようで、また幸いにも、たまたま開けている家の居間に飛び込んだのでありました。
 後藤造園の言い分け
後藤造園を使うようにしたのは山口会長である。しかし、工事の指示をしたのは時雄君でした。
後藤造園はそれでも山口会長については何も言えないとみえて、時雄君の悪口ばかしでありました。
 「熊谷議員(時雄)が早くせよって言うから」「俺はそんなんじゃ危ないって言ったんだ」 そんな話しの繰り返しをするばかしでしたが、突然に黙ってしまいました。         平成29年9月5日  
  
   現れた時雄君
 言い分けは誰にでも出来るものであり言い分けが解決の始まりでもありますが、そこには責任が伴わなくては成りません。 事実を話すことが言い分けを認めてくれる唯一のことであると言うことを、社会人であれば肝に銘じるべきではないでしょうか。
 得てして人は、言い分けによってその場から逃げ出せるような考えになりがちですが、それは錯覚であり、ものの数分で本性を見抜かされてしまいます。
 ふれあい館の駐車場で後藤造園と落ち合い、後藤造園の言い訳を聞いていました。
話を聞きながら現場に行こうとしていたその時、熊谷時雄議員が現場から降りてきたのです。
後藤造園は私たちに向かい現場を背にしていましたので、時雄君の姿は見えません。言い分けを続けるばかりです。そして時雄君の悪口が佳境となったときはその後ろに時雄君が居たのであります。
 気を遣ってしまった
横にいた熊谷社長(現飯田市議員)が、私に視線を送る。 かまうことはないと思いましたが、「熊谷議員!これから現場に上がりますので一緒に見てください」と、声をかけました。
その時の後藤造園のばつの悪さ、気の毒なほどでありました。           平成29年9月7日  
  
   怒鳴るのは時雄君の専売特許
 「あっあっ、・・・」声に成らない声は後藤造園でありましたが、それにも増した怒鳴り声? 「うるせえ!」 こんな返事は怒鳴り声としか言い表せません。
構うことなく、「あなたは議員でしょ、一緒に見てほしいとお願いしてるんですよ」、「関係ねえ~!」 それはそれは速足でありました。 砂利だらけの足場の悪い駐車場を走り抜けるその姿は、けしてあか抜けては見えませんでした。
 呆れた
この姿に一番呆れてしまったのは後藤造園でありましたが、捨てせりふを吐いて走り去る時雄君はいつもの通りの時雄君でありました。
 目にした水子地蔵群
その中で否応なしに目についた二体の地蔵、その一つには「岡庭一雄」としっかり刻まれており、その地蔵が一番目立つところに設置されておりました。
水子地蔵を設置するなどとの考えは、通常の方であれば思いもつかないことでありましょう。 たとえ、金の回収を計ろうとしても、こんなことが出来るものは時雄君しかおりません。 園原部落では熊谷操議員がその中心に居り、二人に協力するのは信濃比叡を自分の範疇に収めたいのが本心でありましたが、時雄君と山口会長はそんな操氏を “くっつけず、離さず” で利用しておりました。    平成29年9月9日   
   
   狂っていたのは議会も同じ
 信濃比叡は宗教法人とした “お寺” であります。 広拯院(月見堂)とは別格な新たなお寺であります。
伝教大師を基に観光寺として整備していくことは園原の歴史伝説に合うことでありましょうが、そこに “水子地蔵” は何ら関連性が無い整備でありました。
少なくとも、水子供養はお寺としても別格扱いに成っているものであり、まして “表” の供養ではありません。
 六地蔵
六地蔵で始めたものならば六地蔵の建立は絶対に必要であり、それが当初から水子地蔵本尊として一体設置されているならば、何をどうとっても “水子地蔵” 以外の何物でも無いことは誰の目にも明らかでありました。
 岡庭一雄の水子地蔵
岡庭一雄は水子地蔵と知っていて設置している。これが寄付を集める手段と分かっていて設置している。
ここで早、二つの違法を行っているのであります。
 なぜ議会はその事を問題としなかったのでしょうか?             平成29年9月11日  
  
   二つの違法
 政教分離  この事はもはや常識の範囲であり、中学校社会科事業であります。
さて、もう一つ  公職選挙法違反であります。
水子地蔵設置という呼びかけにおいて岡庭一雄村長は数十万円の寄付をしている。 水子地蔵を個人的に申し込んだとしても大いに問題あるが、寄付という行為において水子地蔵が設置されているのであるから公職選挙法において違反してた。と言うことになります。
 気がつかないはずが無い
確かに当時はその程度の議員だったかもしれないが、こんな事は中学生以上であれば誰でも分かること、それを咎める議員が誰もいないことの方が問題であった。
 共産党の出番?
共産党員の村長で有るからして、共産党員が騒がない。他の市町村、県であればすぐに住民団体が行動を起こすことなのに阿智村は至って静かでありました。
 熊谷直勝さんでしたっけ?当時の議長さんは、私が落石事故において直接その事を指摘しているのに、「我関与せず」でありましたよ。
議長がこんな調子でありましたから、議員全員が狂っていたんではありませんか?  平成29年9月13日  
   
   何でも出来る 何でも出来た それが権力なのだ
 水子地蔵をつくる事は一般人であれば考えもつかない。六地蔵であればまだ少しは有るかもしれないが、寄付を求めて水子地蔵を設置するのが目的であって六地蔵は単なる隠れ蓑、これを平然と進めるホテル阿智川山口会長の金銭感覚は私には理解出来ない。
それを言い出したのがお金が中心の熊谷時雄だと言う。その上、水子地蔵に阿智村長岡庭一雄の名が有って、議員も誰もそれを咎めるどころか何名かの議員が水子地蔵を設置している。
 ああ何たることか、それは “地獄絵図” の何物でも無いではないか
どうして阿智村はここまで狂ってしまったのか? 何が原因なのだ? みんな欲と欲の凌ぎ合いではないか 
 こんな者が議員であって、村長だという
なんか間違っていませんか? 共産党が村長になったのが一番の原因だと、共産党は不正を無くす党ではなく不正を生み出してしまう政党だと、その様に見えてしまうではないか      平成29年9月15日   
   
   《 緊急お知らせ 》
 今阿智村は九月の定例議会に入っておりますが、9月初めに阿智村民有志15名の陳情書が提出されたようであります。
陳情内容については分りませんが、その取扱いについて何かもめ事が有ったようであります。
この件に関しては、タイムリーのコーナーにおいて書き出していきます。  
  
   阿智村定例議会の一般質問は 9月20日に行われ、陳情書については翌21日に取り扱われるとのことであります。  
  
   このコーナー 『きづかない疑問と隠された疑惑』につきましては、『花桃街道整備事業 岡庭村政幾多の疑義』と併せ、新しいコーナーとして近日中に始めます。
今回の陳情書に併せ、ダイレクトな事実を書き出していきますのでご期待ください。 平成29年9月19日
 

阿智村 岡庭一雄前村長の不正

花桃街道整備事業 岡庭村政幾多の疑義

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