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空 模 様 

 青い色 がすきだ  確認色 だという
 東の空を見る 赤石から一番最初に
日が昇る 振り返る山並みの真西は神坂峠 日が沈む
真下は恵那山トンネル まっすぐ峠に向かっている  
誰でも自分の生まれた日を特別とするだろう 4月8日 8月8日 四か月事のこの日も意識している
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                                                  K

 園原は、その原!が正確な呼び方だ。原は、少し広い所を差し、“はら”とよぶ、そこに在るはら、そこはら、その原!と、呼んだのである。と、話す人がいた。どこかの学者?(羽場睦美氏?か、教員上がりのあの自尊心の強い文化財委員長か?) それを、園原の若い人たちは、うんうん頷いて聞いていた。
 こうして、歴史が “変えられて”いくのかな……と、悲しくなった。
 園原は、そ の は ら である。 祖 野 原   隣の集落は農間(のうま)、農間は、“のま”、であり、野の間   殿島は、二つの川が交わる様を縞(嶋)に見立て、嶋渡り(しまわたり)、嶋渡りを洒落で反転させ、渡り嶋、渡乃嶋   小野川は書いて字の如し   小野川の隣は違う集落だが、呼び名は同じ、中野、大野で 大・中・小   ここまで書けば分かりますよね。
 失礼な は な し   偉そうに言えば、祖野原氏24代目の目前で何を騙る! 
本差と脇差、揃って有るから武家(源氏の末裔だからそれなりに)であった。
神坂神社、祖野原氏神で海神三様が奉られている。ここから奥は神の領域として、入植限度を決めたのが神社である。
 実は、海神三泰は園原の南山側の入植限度とした、“御天奉様(おてんのうさま)”の奉りであり、祠だけになってしまった神坂神社に後入れしたのである。(御天奉様は現在ヘブンズロープウェイ乗り場になってしまった)
 神坂神社の本奉りは、神刀であり、それが、かの神話、“日本尊の剣”、となっているのである。(ほら!園原が日本のど真ん中!って、だんだんとその気になったでしょう)
 それほどの、“神刀”を、奥山の祠に入れて置くわけはなく、御天奉様の海神を代わりに入れたのです。
 その、“日本尊の剣”は、当家で奉られていた。 それに目を付けた、誰かさんのような悪者が、“大東亜戦争”の、供出とされ、手元から無理やり離されてしまったのである。
(いまならまだ間に合うよ。その神刀を届けた叔父さんがいますから)
(私の生まれた日は、真珠湾の奇襲攻撃の日、大東亜戦争勃発の10年後)

 そんなわけで、本谷・園原・小野川の集落が、各々の財産(山)をもって村となった、共有山割り原書・図も揃っている。

 義経の都落ち
 落ち延びるのに 街道を なんて今更ではないが  隠れて 誰も気づかない そして確かに陸奥(みちのく)までつづくみち
 熊襲(くまそ)退治にでむいた防人(さきもり)が 神坂峠で今生の別れにふりかえり 戻れない都、母父(おもちち)を偲んだ防人が もしかしたら 藤原氏の祖先かも
 女帝卑弥呼に刃向かえば それは國賊 それは熊襲  もしかしたら 東北の熊襲は平泉の藤原氏 もしかしたら 熊襲の源流九州南部の国東人か  
高校三年の夏休みまえ、祖父清から「神坂峠の発掘で高校生のバイトが要るとのことであったから行くように」万岳荘で待っていたら、中学の社会科の石川先生、高校の憧れの彼女の担任の歴史・文学の水野先生、その他大勢の後に学生たちに囲まれながら大場教授が登ってきた)                    
 

 義経は都落ち 裏を行くのは論理的だが はたしてそれだけであったのか
 なにかほかの訳が ここに来なければならない 何かがあったかもしれない
防人がここを通って この世の別れをしたのはなぜなんだろう 熊襲退治に行くのであれば なにも裏を行く必要がない
わが身を守る勾玉さえもこの峠に埋めている 防人だけでない 訳ある旅人なのか 命を落としかねない険しい峠に続く道を なぜ わざわざ選んだのか  防人と同じようにお守りを埋めた 旅の安全の祈願であった と大場教授は言ったが  そうではないのでは  お守りを旅の途中で手離すなんて考えられない
 防人も 訳ある旅人も そして義経さえも ここ日本の真ん中 そのはら を なにかの目的で通ったのではないか

 清少納言 紫式部  万葉集など
 それ以外の、卑弥呼から成る大和朝廷、日本武尊の歴史的な文献は、主に江戸時代に書き記されたものが多いようだ。
平安の物語を平安時代に記された 平安の和歌に詠われた そこにおおくの そのはら が在るのはどうしてだろう
 その そのはら は 意味深な神秘的な ところとされている  どうして そう 感じていたのか
平安の人たちは その前の時代 大和が國を治めている時代を一番知っている人たち だと考えればどうだろう

 熊谷直一翁  園原の伝説を世に知らしめた人  この人は和歌をたしなんでいた
 この人を世に出したのはその和歌と、陰で、園原の伝説をつくり上げた人がいるからである。
熊谷源三郎(隣家で何代か前の分家 顧問の祖父) 二人の関係は、社長と係長のようなもの。
 源三郎氏は日夏耿之介と親交があり、柳田國男の伝説類別の中で、“園原の伝説” をまとめている。 伝説とは事実を基に、特異な出来事を書き記すものであるからして、その源となる資料を求め幾度となく京の都を訪れている。
 そのようにして、日夏耿之介や柳田國男の最終確認を経たうえで、直一翁と二人して京の都に上がり、“園原の伝説” を認めて(登録)もらったのです。

 神坂峠の発掘は、学生たちだけで続けられた。その食事の世話に、顧問の母親が就いている。義父源三郎氏が寝たきりになってからは、日夏耿之介とのやり取りはすべて顧問の母の役目であった。大場教授といえば考古学の第一人者、目の前で何人もが書付を強請っていたが一切応じなかった。 発掘が終わり明日には帰るとなった8月8日、顧問の母が二枚書いてもらっている 『千早ふる 神の御坂の跡みむと 峠とよもし 鍬の音する』 指と醤油で書いた色紙の一枚は、顧問の母の気づかいとして祖父の書棚の前に掛かっている

 熊谷源三郎の園原伝説
 伝説の主人公、“炭焼き吉次” が住んでいた伏屋が、“長者屋敷” 私の家のあるところです。 今は、“長者の池” が現存しているのみだが、源仲正の、“とくさ刈る……” 謡曲(能生)の、“木賊” は、家の下、恵那山トンネルとの間に、“木賊山” として群生しています。
 “神のお告げ” を承けた、“客所姫” が、そのはらまでたどりつき吉次と夫婦(めおと)となった。その姫が、京の都にいる母を想うくだりが、“帚木” として、平安の歌に詠まれている。
 二人の間に授かったのは、“一人っ子”、その子が京に上がり、“義経の都落ち” の先旅(さきだち)をしてこの園原に戻ってきた、“金売り吉次” である。

 神坂峠の発掘は学生たちだけで行われていた。バイトの私は遠巻きにどこで何が出るか!ワクワクしていたものである。
 そのすべてが万岳荘の真ん中に並んだのが8月8日 大場教授は、一つ一つ確認しながら学生達に説明していた。
 勾玉 これは三種の神器の、“玉”とも言われている。旅人は、防人のお守りとされていたこの球をお守りとしていたのではないか。 “びゅうず” 5mmくらいからのこれは、幾つかを紐に通し数珠のような役割もあった。 少し小さめの土瓶のような物がみんなの目を引いた。 これも神を奉るときの、“お神酒”を入れてた器ではないか。
 ここで発掘されたものは、お守りというより “神” を奉るときの一式であるように思えてならなかった。

 18でこの世界(設計)に入った時から、“それは” 宿命のように感じていた。 20の時
 峠の発掘品が阿智村に返された。 村はその扱いに慣れておらず、その遺物を庁舎内の一室に保管していた。
それを知る由になった時私は思い立った。 「峠の発掘品を保管する建物を園原に建設してほしい!」と、黒柳村長に直訴したのである。
 村長席の真ん前に在った教育委員会、「教育長 熊谷君の話を聞いてみてください」と、声をかけ「分かりやすいように図面でも書いてください」と教育長が言われる間もなく、『園原資料館』の計画図を出していた。

 宗祖 伝教大師 最澄
 全国安行の末、比叡山に入り開山した日本仏教の祖である。全国安行の最後の峠、旅人の難儀を救うため無料宿泊所 薬師堂を園原に建てました。園原部落の先祖の人たちは、“お薬師さま” “月見堂” と呼んで大切に残してきています。
 35年前の事、菩提寺の宗圓寺から祖父清のところへ、最澄生誕記念のこの年に最澄功徳の園原薬師堂を大僧正以下30名が訪れる との報を受け、その行事を受けていただきたい と話がきた。 
 滞りなくその行事が行われた。 新たに、『 廣 拯 院 』という称号も与えられた。大僧正からのお礼は、『 浄 心 』と書かれた色紙、それは祖父の自慢で大場教授の色紙の横に掛かっています。

 知っていますか 山本茲昭 
 映画にもした立派な人です。中国残留孤児の親探し、日本への帰住 総理大臣から感謝状までいただいています。
実際に肉親が見つかった人は数十名、その陰で何倍にも多くの孤児たちが、聞かなければよかった 来なければよかった と、口にしています。また、帰国孤児の里親もしていましたが、やはり、血は日本人でも心には違和感があったらしく、すれ違うことばかりで全ての孤児が中国に帰っています。でも、その功績は称えてしかるべきでしょう。

 その茲昭さんが、廣拯院を持ち寺にしようと熊谷操と謀った話の始まりです。

 信濃比叡
 祖父清が守った『 廣 拯 院 』そのくだりと熊谷操の一件は村長に渡した文書で書いてあります。
 話は飛んで、山本茲昭が亡くなってから
 坊主丸儲け は善光寺の村上和尚に引き継がれていた。村上和尚は、どうしても手に入らぬ廣拯院をそのままに、その周辺に持ち寺となるよう新たな寺を建てようと、時の勢い佐川急便の会長様を園原に呼んできた。案内されるまま高台に立つ会長は、「私がやるには小さすぎ」 この一言で片づけてしまった。

 父の夢
 野に居る父がもう一度行政に関わった。 村会議員立候補
一番焦ったのが熊谷操議員だと思う。もしかしたら、と考え、時雄君も、自分の道が閉ざされる危機感に襲われた。潰したのに何なんだ!というのが、母方叔父と距離感が出来た理由かもしれない。
 そんな程度の考えは父にはなかった。自分の生き方の集大成、伝教大師の教えを刻み込んでいたのかもしれない。
議員になって最初にやったことは、窮地に追い込まれていた山内村長を助けること。これには多くの議員が同調してくれた。二期目は評判が悪い助役(水上の義兄)を変えなければならない(鈴木設計の営業の巧さ)山内村長の切実な思いは父にも分かっていた。それには職員からの評判が良い熊谷哲しかいない!と、村長に進言したのです。
(このことが、哲に死を呼んでしまったかもしれない)

 信濃比叡になったのは
 山内さんは選挙に負けた。知りすぎている私は、残念がる父に言葉もかけられなかった。
疑うことを知らない父は、伝教大師最澄の教えが残る園原をもっと世に出そうとした。佐川急便がなんだ、そんなものに頼らなくてもいい。
竹炭を次弟と焼いていたお土産竹炭、それをホテル阿智川に卸していた程度の知り合い阿智川の会長、三男弟の紹介だった。どうしても彼しかいない!と、弟に頼み、園原を、最澄を、もっと世に出したい。と、三人で会ったようだ。
会長は快諾した。そして、熊谷哲を伴った岡庭新村長と会長、そして父、その大いなる計画は次弟の焼肉小屋で出来上がった。

 表向きの顔
 阿智川会長は一つだけ父に条件を付けたようだ。
昼神温泉の川向うに、乏しくなった源泉湯量を安定しようと始めたボーリング。 山っ気がないと考えないし、度胸がなければ出来ない事業、間欠泉のように吹き出す温泉に確かな手応えを感じた。
 そのとき、イチャモンを付けてきたのが、何を隠そう岡庭一雄
ひどいでたらめで迫ってきた。「昼神温泉は阿智村が管理している、温泉管理システムは俺がつくり上げた。保健所の許可だけで温泉組合を考えないやり方は許せん!裁判にかけるから首を洗って桶えええ」
(こんなもんでどうでしょうか。だいたい合っていますよね会長さん)                
 この時には、阿智村の顧問弁護士がいたようだ。強気に出た彼のそれも、まるでハッタリではなかったみたい。

 彼は共産党
 会長は、共産党員に共産党の弁護士がついたことを知っており、一番信用ができない村長として判断していたのです。
会長も実業家ですから、経済効果(昼神温泉)が上げることが岡庭村長と組める表の条件、このことは父が言わなくても岡庭村長のライフワーク! 父との条件はそれ以来聞こえてこなかったが、ある大きな出来事が起きた時に、足かせとなって私に告げられた。(このことはいづれ経過の中で出てきます)

 のけ者にされた熊谷時雄氏
 それは伝教大使像建立から始まった。阿智川会長は熊谷操議長を相手にしていなかった、当然であるが利用していただけである。黒柳村長とはパイプがあった。黒柳さんからのニュアンスで全てを感じ取っていたのです。
でもしかし、二人とも西地区の代表議員として立場がある。せっつく時雄氏にはうんざりもするし、操氏よりも扱いづらい。でもここが会長の会長たる上手さ、(私にも父方叔父にも、“利用してるだけだよ”何度か聞かされた。議員でなくなれば電話にも出ない冷たさ)手の中どころか足の下で使っていたのですよ。
 のけ者扱いをしてから、さも必要だ!と言えば、時雄氏は喜び勇んで出しゃばりすぎてしまった。

 父が倒れた日
 入院してから1か月経とうとしていたある日、家の裏山伝教大使像の横下に何かが出来た。近寄ってみると二尺くらいの石仏が12.3体設置されている。その横に水道管を立ち上げ水を流すような水路のようなものが出来ている。
何だこれは? しばらくして、部落会開催の急な連絡がきた。
 部落会に出席したら、部落長が座る正面机の真ん中に熊谷時雄が、で~んと座っている。操氏は、関係ないよ俺は、のように斜交いに座っている。

 水子地蔵
 時雄氏の話を聞いて驚いた!!!
・園原部落に1,000万円寄付をする。それは昼神温泉組合からだ。
・その1,000万で千躰地蔵を作るという。
・これは信濃比叡の事業だという。

 昼神温泉組合から1,000万円の寄付?
 その寄付で千躰地蔵を作る?それは寄付ではない!
 千躰地蔵?出来ているのは水子地蔵だよ!
 信濃比叡の事業?父には確認した、でたらめ言うな!
 部落に何の話もなくすでに工事を始めている!

 『 三 種 の 神 器 』
 『 鏡 』・『 玉 』・『 剣 』
 兄、源頼朝 義経が三種の神器の剣を、沈みゆく壇ノ浦の海から拾い上げられなかったことに、その怒りがあって義経を手にかけなければならなかった。今歴史はそのように伝えられ、多くの歴史学者が解説しています。三種の神器についてもインターネットを検索すれば、そのような事や三種の神器の役割などが説明されています。

 本当にそうでしょうか? ここでいくつかの疑問がでてきます。その疑問を歴史上の中で、現実と伝説の中でいくつか拾いだしてみましょう。
・義経が沈みゆく三種の神器、そのうちで鏡と玉は拾い上げたという。なのに、“一番大きな草薙の剣” は見つからなかった!と?
 本当に見つからなかったのか?と の疑問を抱きましょう!
・義経の母は常盤御前、頼朝とは腹違いの子、兄頼朝のために働いても兄がその全てを継承することは分かっている。その証拠に、壇ノ浦で平家を滅ぼしてもすぐには頼朝のところに帰らずに京にいる後白河上皇に報告し官位を受けている。義経が政治を行える官位を受けてしまったため、頼朝は新たに武家社会を構築し摂政関白制度を設けたのではないか。
後白河天皇の謀略とされているが、義経からの提案であったかも。

 そう考えてみると・・・義経は確かに三種の神器、『 草 薙 の 剣 』を、拾い上げていた。そしてそれを懐に隠して後白河上皇に会いに行った! 後白河天皇はそれであるからして義経の提案、“官位” を、受け入れざるを得なかった。

 三種の神器
 まあ、諸説いろいろあるが単純に考えればよいのでは、と思ってしまう。
三種の神器は皇位継承の正当性を示すもの、ですから、天・空・地 その全てがそのものに現れている!とすることが目的のもの。
 三種の神器 鏡
 鏡は、写すもの映る物 光る物  光=天=神 神が見ている、見られている

 三種の神器 玉
 玉 玉は勾玉 勾玉となれば、神坂峠からの発掘遺物でも有ったように、“お守り” または、呪術師が用いるような予言(未来)が現れるとした玉
 三種の神器 剣
 草薙の剣 これは、“地” における、“力” 神から授かった、“神刀” 地、いわゆる、“国” を治める力

 ここで少しさかのぼる
 大和王朝の熊襲退治、九州南部に大和王朝に逆らう一族がいた。これを滅ぼすために王朝は一団の兵を送り込んでいる。この指揮をとったのは皇子とされていて、日本武尊(ヤマトタケル)ではない。との説が多い。
この時の成敗の旗印がこの、“剣” いわゆる大和王朝は、正当な王権で正当な行為なのだ!を示すための、“剣” 

 水子地蔵
 私は事前に調べていた。
出来ていたのは、水子地蔵十数体と賽の河原 その水子地蔵供養塔の一つには、岡庭一雄と刻んである。
(岡庭さんは二号さんにこんなつらい思いをさせたんだ?と思ってしまった)
もう一人知ってる名前が、上原耕平 バカな男だ、良し悪しも理解できないお粗末さは、その水子地蔵に彫ってあったこと、同級生の死を悼む ふざけるな、哲の奥さんがこんなことを聞いたらどう思うか!

 阿智川会長も、購入した土地代金250万の回収を図ろうなんてみみっちいことを考えるから、時雄君を上手に利用しようとし過ぎるから、時雄君の暴走! を止められなかったのですよ。

 時雄君は私の質問に何も答えなかった
 熊谷操氏は時雄君の言う通りになっていた。時雄君が恐かったのです。裏の事(多くの着服金)を知られていたからです。 逆らえばほら、信毎が記事(か)いちゃうじゃん。 それに、水子地蔵に賛成していたからだ。
 部落の人たちは全員出てきたと思う、そして前段のような滅茶苦茶な話を聞いた。そして、前段ののように質問した。
時雄君は何も答えなかった、答えられなかった。

 そこで注文をした! 昼神温泉組合の寄付金についての信ぴょう性! そのことを確認するまでは水子地蔵の工事を一時中止せよ。その上でもう一度話し合いを行う。とした。 私のほかに疑問を呈したのは操氏の甥だけであった。

 昼神温泉組合は二つあった
 ある旅館の社長と会った。「寄付?何のこと何も知らないよ。もしかしたら新しく出来た温泉組合の方で進めているのかなあ?」と、新しく出来た温泉組合長、ホテルいなか、の上原社長に会いに行った。この人、けんもほろろ。マイペースなのか無責任なのか、会ってくれない。そう言えば、ある旅館の社長が言っていたっけ、「無理かもよ、時雄がやってるひる森と犬猿の仲だから。」
 時雄君の言うことは全部ウソ
 嘘の得意なところは岡庭君と一緒、“類は友を呼ぶ” とはこのこと。嘘で固めたことがバレない様に、工事をどんどん進めちゃった。  そしてそこで事故は起こった。

 落石事故
 それは突然に顧問(部長)から知らされた。 電話口では、「園原の家に石が飛び込んだ!水子地蔵の工事してるからその石だと思う、壁を壊して止まっているけど中は仏壇と戸棚がひっくり返っている!」と、親父から電話があった。自分は遠方に向かっていて引き返せない、申し訳ないが行って見てほしい、親父が待っているから。
 顧問の父親の家、私の家の隣、そこに1メートルは有ろうかという大きな石が飛び込んでいた。石が転がってきた後は車のわだちと一緒、それをたどって水子地蔵にたどり着いた。そこには誰もいなかった。
 顧問の父親(叔父)と話し会社に戻って警察と労働基準監督署に電話を入れた。そして再び現場に戻ると、阿智の交番から二名のおまわりさんがいた。 動きが悪い、人身被害がないのだから特に大げさにしなくても、なんて感じ。大げさにしなくてもよいのでなく、事故調書を作成していただければよいだけの事。監督署も来た。同じような対応、同じようにお願いした。今日の何時にどんな事故が起きた。それだけが必要。
 お巡りさんが言った。落石した家に行って見たが石がなかった。けど被害は分かりました。ついてはどれくらいの石か分かりますか?ときた。それでは叔父に話を聞いてみて。 「そのままにしておけ!」と言ったが、落石事故を起こした業者が割って片づけられた! かなり憤慨していた。それもそうでしょう。           平成28年7月28日

 緊急部落会議
 顧問は父親の代わりに出席した。
当然、時雄君は出席しなかった。部落会の中で何を言っても仕方がないが、少なくても熊谷操氏からうかがい知ることはできる。顧問と二人で落石事故の事を言い出せば、操氏の取り巻きは(甥は別)彼等の味方。部落内の不毛な言い合いになってしまった。 でも私にはそれで十分だった。この事故について部落会が開かれたこと。この事実は大きな後押し。
 南信州の阿智村担当の記者  阿智村曽山の人
 この人がいたことが大きかった。(阿智村以外でもこの人のこと知っている人は大勢いると思います。分かりますよねどういう方か) 水子地蔵をどこで作って誰が進めているか、全て知っていた。記事のお願いをした。すぐに飛んできてくれた。そして、記事にします! と言ってくれた。                   平成28年7月29日

 事故が起きて直ぐ私は熊谷直勝議長に電話を入れた。これは父の指示だった。だがしかし、何もしてくれなかった。

 まだ続く時雄君の暴走
 私なりに事の修正をしようと思った。なんだかんだ言っても父と阿智川会長が始めたこと、熊谷直勝議長もそう思っているからどうしようもない。園原の歴史に合わない水子地蔵だけ止めてもらえばよいこと。だがしかし、阿智川会長と時雄君にはそんなことは微塵もない。
 信濃比叡として名を売れば、善光寺参りの信者が昼神温泉に泊まる、その目的だけでしか見ていない。考えていない。だから、時雄君は強い、地区の代表議員としての義務感は何にもない。全てが自分の利益が基準!
 父は園原のために伝教太師最澄の功徳を後世に残したい、それが園原の歴史、それが園原の伝説。利己主義な欲のためにまい進する時雄君は、何が根底にあるのか? 少なくとも君は村会議員ではないのか。
(母方おじは月川温泉、時雄君が阿智川会長と組んだように見えたことで、また、昼神温泉を中心にしていることが時雄君と初めて距離を置く原因となっていった)                      平成28年7月31日

 この一連のことが、10年前の公開質問状につながり、やがて岡庭一雄村長を相手に民事裁判をかけることにつながっていきます。 (この続きは来週から)

A                                                    K

 ヤマトタケル   日本武尊
 日本武尊は実在しなかった! との説が多い。それは東北の熊襲退治に向かった一団には皇子の御柱がいなかった事でそう解釈されているようだ。
 ここで神坂峠について検証しよう。
先にも述べたが、大和王朝が東北の熊襲退治に向かうのに何も困難な東山道の神坂峠を越える必要はない。で、あるからして、熊襲を退治してからの帰り道にこの園原に立ち寄った。のではないかと推察できる。
 大場教授が発掘された遺物をみて、『旅の無事を願ってお守りを山の神に捧げた』のではないか!?と話された。
この困難な峠を越える旅人は、やはり、それなりの理由があった。そうでなければ東海道や中山道を通るはず。それなりの訳がある旅人が園原からの峠道を頂きまで登りつめ、やっとそれが達成できた安堵感から身に着けていたお守り、『 勾玉 』を山の神への礼として埋めたのではないか! と想像する。

 神坂神社にある日本武尊の腰掛石
 そこで伝説となっているのは熊襲退治の帰路の昼神物語、やはり伝説においてもここ園原に立ち寄ったこと。
この伝説においても不思議な事がある。 なぜ帰り道にこの険しい峠道を選んだのか? 
 ここで想像してみよう?
熊襲退治して傷ついた兵士もいただろう、そしてここ園原に来る必要のない兵士もいただろう。 日本武尊が帰路に選んだとされているならば、日本武尊がここに来る必要があった!とみるべきであろう。

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 神坂峠の遺物
 小僧がいきなりそんな要望しても無理な事くらいは分かっていたが、村もその扱いに困っていた。
そしてそれは、川路の開善寺の収蔵庫行きとなってしまった。
 平成元年のリフレッシュモデル事業、園原では語り部の館ふれあい館、何もないガランとした施設を運営しなければならない。小さな食堂を付帯させて少しでも収益が上がるようみんなで考えた。そして、ここに展示コーナーを設けて開善寺にある神坂峠の発掘の遺物を展示しよう!と、村に働きかけました。
 でもダメでした。『貴重なものだから収蔵庫もないような処に返してくれるわけがない』と、例のあの原文化財委員長からのダメ出し! そんな貴重なものを開善寺なんかに預けたままでいるなよ! なんて憤慨したがどうしようもない。
 文化財なんか相手にしないで、ここを資料館に改造しよう!と方向転換したら会計検査院対象補助事業だから7年待ってくれ、との返答が空しく帰ってきました。

 ここで覚えていてほしいこと
 『園原の里は埋蔵文化指定区域』 それは、むやみに地形を変えてはならない、住宅であっても新たな宅地とするときは、文化財と農業委員会の許可を必要とする。

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 時雄君から切り出した離縁状
 月川温泉の共同経営を辞めた!と、もう一人の出資役員から聞いた。それは、水子地蔵工事落石事故で叔父が私の味方をしたことが気に入らなかった。智里西開発協同組合の総会議長の立場で私の味方に付くのは片手落ち!との言い分だという。そして付け加えるように、「他の人たちは章文君の言う通り、時雄君が悪い!とみんな言っている。」
 情けない男は、子供のケンカより落ちる。でも、叔父の顔はさみしそうだった。

 南信州阿智担当記者
 さすが阿智の人、そして村政の歴史を知り尽くしている。そして何が一番良い方向かと分かっている。だから誰かが本気でその正しい方向に進もうとしている時助けようとしてくれるのだ。
そこに報道機関の人間として正しい、それこそ報道倫理に適していない事が万が一にもあったとしても、そんなことにふれることはない。
 え!話しちゃったの?
水子地蔵の件を、園原部落が困惑していることを、落石事故が起きたことを、水子地蔵に岡庭村長の名前が有ることを、全部記事にします。 そしてその記事はきょうの夕刊に載ります。
 その日の朝役場に用事があった。
10時半ころ、車から降り役場に入ろうとしたそのとき、役場からその人が出てきた。 あ、どうも。「ちょうど良かった。今村長に今日の夕刊に出すよ!って話してきたとこだよ。」 ・・え?! あ、そ う・・

 岡庭一雄村長から電話が来た
 会社に帰ったのは12時ころかな、それから食事して午後の仕事が始まってしばらくすると電話が鳴った。
「はい、章設計です。」事務員の応対に耳を傾けていたわけではないが、なぜかそんな気はしていた。
「所長電話です。」 ん? 誰から 「あのうどちら様でしょう?」・・「岡庭さんと言ってます。」
 やはり来たか・・何と言うのだろう?     ・・・それは・・耳を疑った。
あ、もしもし岡庭だけど・・熊谷所長さんだなあ ネコナデ声である、それも敬語を使って気持ちが悪い

 汚い男
 岡庭一雄、最初の出会いからこの男の、“ 本性 ”は見抜いていたつもり、だから適当な距離感できた。
『 狡(こす)い男 』この言葉が一番似合っているかな ( ´艸`)
熊谷時雄、大人になるまで知らなかった男、『 人間じゃない 』この言葉を彼に投げかける人が増えてきた。確かにその通り、知り合って6年めに叔父にこう言っている。「時雄には情がない、普通の感情がない!人を最初から疑ってかかる!こんな人と一緒にやっていけない!」叔父の返答は、「俺がついているから大丈夫だ。」

 何か用ですか
 要件は分かっている。それをどのような言い回しをしてくるか? だけであった。
「あのう、水子地蔵の件が新聞に出るって聞いたんだけど!」 それが何か?「いやあ、俺は何も知らないのだが・・新聞に出すことを止めてもらえないか?」 知らないのになぜそんな事を言うのか!知らなければ関係ないじゃないか!「いやあ、怒らんでくれ、そうではなくて・・」 何を言ってるんだ!?私はあなたにその事故の事で会いに行っているではないか、それを居留守を使って会おうともしなかったではないか。それを今さら何だ!こちらはキチンと最初から話し合うつもりでいっているんだ。勝手なことばかし言うんじゃないよ!
 私はいっぺんにキレてしまった。 「いや、そうではないそうではない」 何がそうではないんだ! 熊谷直勝議長にも電話を入れた、あんな者は話にならん!あれでよく議長が務まるじゃないか、最初から村長を守って、自分の立場ばかし言っている。そんなお粗末な議長に真っ先に相談しろと言った父が情けないよ!
「いやあ、議長の事は知らないが・・」 何が知らないんだよ! 電話で下打ち合わせしておいて勝手な事を言うんじゃない!

 聞いている社員が驚いていた
 かなりな大声が出たんでしょう。 「そうではない、俺はいいんだ。村上住職が・・何だ・・」 あんなのは住職じゃない、いつから住職にしたんだよ! 「村上住職を怒らせてしまう!」 怒らせて?怒っているのは隣の叔父さんじゃないか!大きな石が飛び込んで、壁は壊すは仏壇は倒れるやで大事になっているじゃないか。つまらんことばかし言ってるんじゃないよ! 「いや、それはもう話はついたんじゃ、阿智川の会長が補償したと言っていたし・・」 話が付いた?いつ話が付いたんだ!阿智川の会長がそんな事を言っているのか!たるい事言ってるんじゃないよ!阿智川の会長に言っておけ、いつ誰が話を付けたんだ! そして電話を切ってやった。 (ああ、今思い出しても興奮してしまう)

熊谷操議員と熊谷時雄議員が、熊谷直勝議長にも岡庭村長にも、その事を聞いてくる誰にでもこう言っていた。
『あれは家じゃない小屋だ、壁をちょっと壊しただけだ!』

 そして二度目の電話が鳴った
 熊谷直勝議長は、私たち被害者側の要請にも関わらず、この事故に対し何ら対応してくれなかった。岡庭一雄村長と善後策を打ち合わせているだけで、自身の立場だけを考えている人だった。(ほんと、こんな人ばっかし阿智村は)
 岡庭一雄の二度目の電話は、「俺じゃない、阿智川の会長を怒らせてしまう!、せっかくここまで園原の開発に骨を折ってくれているのに、熊谷さんだって、園原の開発が出来なくなれば悲しいんじゃないかな?」 何が園原の開発だよ、父は水子地蔵なんて、こんな事をやるために始めた事じゃない! 「いや、それは誤解だ熊谷さん。阿智川の会長さんを怒らせない様に、頼むよ、なんとか阿智川の会長と話し合ってくれんか」 なんだ? 阿智川の会長と何を話す必要がある。落石事故のことの対応の不備はお前じゃないか! 「いや、とにかく頼む。会ってくれればそれだけで良いから! 阿智川の会長さんが会いたい!と言っている、俺じゃないんだ、阿智川の会長さんの方から言ってきたんだ。」   
 阿智川の会長から言ってきた! なんてことは考えられないが、新聞に出すだけでは水子地蔵の件は解決しないとも分かっていました。 会ってもいいが、俺にも条件が有る! 「ありがたい。何でも話してもらって結構です。とにかく二人で話してくれれば誤解は解けるから。」 いちいち気にさわる、こいつの言い方は 「それじゃ阿智川の会長さんに会ってくれると連絡するから、直ぐにするから待っていてほしい。」

 三度目の電話
 「急な話で申し訳ないが、これから鶴巻荘に来てもらえないか。そこで阿智川会長さんが待っているので。」
『新聞に出ることを止めてくれ』それを阿智川の会長から言わせるのだろう、後先の事は私も考えていなかった。
鶴巻荘に着いた。玄関先に岡庭と福岡助役が出迎えに来た。
案内されるままに事務室横の二間続きの部屋に入った。
 そこで待っていたのは、二人であった。 阿智川会長と熊谷操 やはりそうか 阿智川会長の老練なやり方です事
大きな座卓の真ん中には、見たこともないような大きな皿に、鶴巻荘にこんなに沢山の料理食材が有るのか?!と思えるほどの皿盛りが置いて有った。
 どうぞどうぞと村長自ら、一番上座に案内される。 まあなんて、腰が低い方であらせられること・・・

 土下座する岡庭一雄
 私が正面に座り岡庭一雄が左、その横に阿智川会長。右が熊谷操、その横が福岡助役
岡庭一雄が口火を切った。 「本当に申し訳ない迷惑をかけた。叔父さんには会長から十分に謝って許してもらえた。」
 叔父の言葉は、「時雄が飛んできてああだこうだと言ったが、あんな奴のいう事なんか聞く必要もない。どうでもいいことだ。阿智川会長もすぐ飛んできた。竹炭で世話になっているから一通り話は聞いた。」「俺は揉めることは好まない、ただ、部落に何も話もしないできて、その上話もつかないうちに工事を先行させて事故を起こした。」「飛び込んだ石をすぐ小割にして事故を隠すようなことまでするのはどういう事か!」「迷惑をかけたからと2万かそこらかは見てないが、金で解決しようなんてやり方で俺は受け取らないと言った。」「章文が新聞に出すと言ったら、今度は5万持ってきた。置いていったけど受け取ってはいない。」

 阿智川の会長
 叔父は竹炭でお世話になっているから、会長が申し訳なかったと言えばそれで収まると思うが、水子地蔵を建設するという話が部落に無かったことはどういうことか? 「それは申し訳なかった。謝ることは謝る。」 謝ってもらう前に説明をしてほしい。 そこでもう岡庭が口を出す。「そうよ、時雄が何で話をしてこなかったんだ。」 時雄は相手にしていない、会長は何をやりたいんですか?千体地蔵なんて、水子地蔵を千も二千も作るんですか!園原は伝説と史跡の由緒ある部落、千体地蔵なんてものを造っては園原が変わってしまうし、史跡や遺跡の埋蔵文化に手を付けることなんてとんでもないことではないか。だいたい文化財で許可するわけがないではないか。 またここで岡庭が口を出す。「いいのよ良いのよ、文化財は大丈夫だ。」 何を言ってるのだ!文化財がいい!なんて言う分けがないじゃないか。水子地蔵に賽の河原まで作って、園原の人たちは気持ちが悪い!って言っているよ。 会長が、「そうか、お前の言う事は分かった。お前が言うとおりどの様にも変えるから、園原をもっと世に出したい!東山道を復興したい!とお前の親父と一緒にやってきたんじゃないか。そこに時雄がくっ付いてきて、あいつは俺が止めても自分だけの考えだけでやりすぎる。」 「そうだ、時雄があまりにも自分だけの考えでやりすぎる。だから今日のことも時雄には内緒で・・」 また、口を出す。ホントにこいつはしゃべりすぎる。

 お前の言う通りにする
 阿智川の会長は対面の強い人、社会的メンツもあるだろう。それに岡庭の職員時代、やる事成すことに反対され、あまつさえ阿智村の顧問弁護士の名前を出して、『裁判にかけるぞ!』まで言われてきている。
 そんな岡庭一雄に『我慢して付き合ってきているのだ!それもこれもお前の親父とした男の約束のためだ!』
ここでそれまでは言わないが、『それは互いの良心』 会長にも言い訳が必要で、私にもそれを汲み取る気持ちが有る。 それをこんなお粗末な奴らの居る前で、治めていかなければならない。
 『お前が言うとおりどの様にも変えるから・・』が、精いっぱいの言葉、私はその言葉に乗るしかなかったのです。

 その言葉はもう一度繰り返された
 岡庭が、「会長さんが言う通りに変えてくれると言っているから、どうですか、何でも思い通りの事を言ってもらっては・・どうですか会長さん。」 もうホントにお前は、黙れ! うるさい黙れ! 喉から出かかった
 「どうだ、水子地蔵は全部止める、そして賽の河原も水は流さないし、あんな物は放っておけば草が生えて分からなくなるし。」 会長が口を開いた。
 水子地蔵は本当に止めてもらえるんですね。 「ああ、今出来ている像は水子地蔵って事ではないんだ、水子地蔵の千躰地蔵は時雄が言い出したこと。俺は、寄付を集めるために六地蔵を作ったらどうか?と言ったのに、時雄が勝手に進めたんだよ。」
 ん? 寄付を集める? それはどういうことですか? (この事は知っていた、父から聞いていた)

 六地蔵を造ろうと考えたのは
 伝教太師像はご存知かと思います。その像の正面に向かって左側、一段低いところに、その時すでに耕作しなくなった田んぼが二つ、段々となっていました。
月見堂(広拯院)とその土地が手に入らない!と分かった村上和尚は、新たに信濃比叡となる核を造らなくては成らなくなった。それもそのはず、信濃比叡の名前を総本山から受けるには、本堂やその土地を寺登記しなければならない事であるからだ。

 その土地の地主
 飯田市大平部落から園原に養子に来られた方。実際は飯田市に住んでおられました。その人は熊谷操氏が大っ嫌いな人でした。だから、村上和尚が阿智川の会長や熊谷操氏に『買い入れてくれ』と依頼しても、絶対に売らなかった。
やむを得ず父に、『信濃比叡として寺登記できる土地が必要、土地さえ手に入れば信濃比叡はいつでも名乗れる!』 何とか話を付けてくれないか! と、依頼されたのです。
 その地主と父は昔から懇意にしており、にべもなく、「ああ、典章さの言うことなら。」と分けてくれたのです。
たしか、250万円と聞いたかな。 父も少し高いかな?とは思ったが、先にチャチ入れたから、出来る話も出来なかった。らしい。
 その金を回収しようと、六地蔵の建設として寄付を集めようと阿智川会長が進めた。 六地蔵だけでは金が集まらないとして、水子地蔵を言い出したのが熊谷時雄。

 新聞社に電話をしてもらえないか
 知っていたけど聞くこと。 寄付の話、一通り話された。そしてもう一度、水子地蔵ではない!お前の言う通り直す!
 そこで岡庭一雄がとった行動。
正座して、両手を着いて、深々と私に向かって土下座した。 「この通りだ、頼む、新聞に出すことだけは止めてくれ・・」 これには一同が唖然とした! 場の雰囲気が、緊張感で張りつめていた空気が汚れるような気がした。
 阿智川の会長に対面を持たせたままで、腹の中でおさめていかなければならない  こんな事は、二人の分かり切った腹積もり・・・ 操氏だって、そんな真似して収まるものではないことぐらいは分かっている。
 

 これがこいつの正体
 こんななりふり構わずのことをする? これは本当に水子地蔵だったんだ 一番怖いのは奥さんにバレルこと?
阿智川の会長だって、私と話が出来るとおもって足を運んでいる。それは、私は典章の息子だからである。
でも、仮に話が出来なくなってもこんな真似はしない、落石事故で新聞に出る!なんて事は大したことじゃない。
そこに名前が載ったって、土下座するんであればそっちを選ぶだろう。  責任を取るからこそ男  こんなこと以上の経験をしてきたから今がある。

 この土下座で解った
 私は無視したその土下座を、その軽い口を。 阿智川会長だけを見て、「水子地蔵を止めてください。六地蔵ということにして下さい。」それともう一つ、園原部落には今日の事は内緒にして下さい。そして、水子地蔵はやめました、六地蔵として信濃比叡の付帯物として設置したい。と新たに部落長にお願いしてください。
 叔父も(父の弟)事を荒立てようなんて気持ちは無いです。部落にちゃんと話してくれるようになった。と言えば、そうかそれは良かった。と言ってくれると思う。
 わかった。その通りにする。
阿智川会長も私だけを見てそう答えた。 私は携帯を手にした。

 土下座した裏には
 南信州の阿智担当記者は困惑しました。無理もありません。私がお願いしたところもあってのこと、そして何よりもう印刷に回さなければ夕刊に間に合わない。
 それでも熊谷さんが止める!と言うのならば、それなりの訳と結果が有るものとして、そうします。
私はなんて勝手なことを言っているのか、自問自答しながら、お願いした。
 止めてくれました。
「ありがたい!」 真っ先に言うのは岡庭一雄、続けて、「助役!ちょっと酒をお願いしてくれ! 熊谷さん、酒でよいですか?大丈夫ですよね、うちに帰るだけだから!」 調子のよい男だ

 さあさ どうぞどうぞ
 私にとってはやけ酒、飲酒運転しても良いと思った。飲酒運転で捕まれば、警察に何もかも話してやる! そんな感じでした。
 またまた余分なことを二つも言った岡庭は。
迷惑をかけて申し訳ない。 ここまではよい 「時雄には今日のこと黙っていてもらえないか、あいつはどうしようもない。出来る話もできなくなる。」 ・・なんで私にそんな話をするのか? 時雄が話をしないから、嘘ばかり言っているからこうなったのではないか・・・私に黙っていてくれなんて・・
阿智川会長も、「時雄も出しゃばらなきゃなあ、まあそんな事を言っても聞くやつじゃないし。」 操氏も、「無理無理!あいつは自分のことしか考えておらんよ!」 ・・そろいも揃ってよく言うもんだ・・・私への社交辞令であるが・・ それからしばらく時雄の悪口ばかりが酒の肴

 余分なことの二つ目 これが事の発端
 いきなりである。「熊谷さん、前から要望されてきた園原の資料館! どうです、あれを造りませんか! 造ってあげます。」 身を乗り出して話し出した。私に向かって ・・・・・・・「どう?5億もあれば出来るでしょう、そして原建設が施工すれば良いではないか。どう!?会長。」 阿智川の会長が、「どう?って言われてもなあ」 また岡庭が、「操議員!どう!良い話でしょう。操議員もふれあい館を改修して資料館にするなんてこと考えていないで、熊谷さんと一緒に園原資料館を取り組んでみたら!二人が話が出来ればそんなことは簡単に進むでしょう!」 息もつかずに捲し上げた。 ・・・なんという男だこの野郎! 正直腹が立った 冗談じゃない 薄汚れた話を無理やりおさめたばかりじゃないか・・・何も答えなかった、と言うより、そんな話を、私の想いをここで出すな! であった。

 男と男の約束だ
 私がごねれば との考えであろう、事前に会長と操氏とにそう話していたに違いない。それは二人の反応を見れば分かること、なんて汚い男だろう。私がそんな男だと見くびられるのが腹が立つ  資料館の話には何も答えなかった。すぐに話を振った。 会長 信濃比叡はこれからどのように進めるつもりですか?
「章と操ちゃとなあ、今も言った通りお前の親父との約束だ。信濃比叡となるよう、一緒にやっていかまいか。」
  福岡助役が、「さあさ、良い話が出来た。ここで気持ちが一つになった!ということで、手締めとしましょう!」「さあさ、立ち上がっていただいて、四人でしっかり手を握って!」 四人で握り合ったその上に、両手で包むようにして、「操議員も村長も、熊谷さんも会長さんも、私が未届け人となってここでしっかり確認しました。ありがとうございます。ありがとうございます。」

 翌朝7時50分、早めに来た会社の電話が鳴った
 岡庭村長からであった。「今園原のふれあい館(門前や)に操議員と居るんだが、どこに建った方が良いかなあ? ふれあい館の後ろがいいって操さんは言うんだけど、どう?この高い田んぼを削っちゃって、どう?建てれるかなあ?どこから入っていくかそれが、どこからがいいかなあ?」・・・唖然・・
 「会長もこれから上がってくるんだけど、どう?直ぐ来れませんか!」 それこそ昨日の今日の話、びっくりしている暇も考える暇もない。
 そんな事を急に言われても、でも放っておいたらどうなることやら  顧問にすぐ電話を入れ、とにかく出かけた。

 私の構想は二十歳の時から出来上がっている
 昨日の話はやはり事前に出来ていたことであった。操氏にとってはふれあい館(門前や)の経営が掛かっているのだから渡りに船、何も私の想いに沿ってくれた事ではない。 阿智川の会長も原建設で仕事になる儲け話、それと信濃比叡と結びつければ新たな展開も開けてくる。 そして何より、新聞に出なかった岡庭一雄の水子地蔵がこれで不問となった。

 そんな彼等の目論見は すでに見抜いておりました  そして 熊谷時雄が必ずこの話を邪魔してくることも

 私の構想 
 建設する場所  それが一番大切なこと
文化財でも園原の事など何も分っちゃいない。 熊谷源三郎がまとめた伝説、現存する遺跡や史跡、そして智里村誌
これらを読み漁っての知識しかない。 いわゆる当たり前の歴史を知っているだけである。
 祖父熊谷清は明治生まれ。
長者屋敷に在るこの家が、代々続いている歴史を知っている。 その一番の証明は、この家で『三種の神器 草なぎの剣』を守ってきたことにある。

 祖父清氏は園原の地形を知っていた
 私の家は『長者屋敷』 という処にある。 炭焼き吉次の伝説 義経の都落ちの案内人金売り吉次は炭焼き吉次の子供
『長者の池』 が現存しているが、その水源は屋敷の南側の澤水でした。 その沢は門前やの前まで続いており、その源泉はそこから湧いてくる『 清水 』でした。(門前やの建設工事の時、整地造成の中で石組の水路が発見されております)
 その沢は長い歴史の中で農耕地(田)として変わってきております。

 その変わってきた地形(田)に建設
 『門前やの前に建設すること』 門前やから東の山、赤石が見える園原最良の景色 そこの一段低い田んぼに建て、駐車場と同レベルの階を資料館とする。
 そこは埋め立ててきたところであり、埋蔵文化には何も影響しない園原唯一の場所であった。

 ここはいいなあ~たしかに
 三人の共通の言葉 岡庭村長が操氏に、「水洗便所にしたいって話とくっ付けたらどう? 章設計さん、火渡り用の外便所とふれあい館の便所と一緒にして、当然資料館分もだけど、今ある外便所は壊してそこにうまく造れんかなあ?」
 そういわれても資料館の便所はともかくも、ふれあい館の便所と併設することが補助金の関係でできますか? 「いい、いい、それはいいよ、単独でやるから補助金は考えなくていいよ。」 なんて簡単なことを言うのだろうね?
「会長!いくらくらいで出来ますか? 信濃比叡にも結び付けた方が良いんじゃないですか?」会長は、「・・・」
「会長!火渡りや伝教大使像に上がって行く道の案内ができるように、ここに四阿(あずまや)を造ったら?」

 まあ、次から次によく舌が回ること
 その日の最後の話はこうであった。「章設計さん、いつまでに出来るかなあ、12月いっぱいまでに何とかまとめてもらえませんか、そうすれば2月の予算編成に間に合うから。」

 それは大変でした
 わずか二か月で計画案をまとめろと言う、地形測量から応用測量、そして図面化するだけで一か月かかる、それから建築計画を一か月で上げろ ということだ。 これは全員でやらなければ間に合わない。ただ、当社は測量事務所も兼務している、外注に出していたら間に合わない。

 鶴巻荘の密約は、その日のうちに時雄氏に知れていた
 岡庭村長が村長の立場で水子地蔵を設置した! なんてことは直ぐに職員に伝わっていました。それは当然のこと、どんな理由があっても村長の立場で宗教事業にお金を出す・寄付をする、なんてことは ???なこと。
 水上さんは違う意味でご注進したのだが。
いま村長と阿智川会長が鶴巻荘に章設計を呼んで話を付けている!」と、時雄君に電話をしている。その電話を職員の目が届かない東側通用口でしていたのだが、それに気が付く良心のある職員が阿智村に多くいることを忘れてはいけない。 おかしな動きは誰の目にも不自然にうつります。

 時雄君の性格
 こんな事は、『絶対に許さない!』のが時雄君、彼のメンツが丸潰れ! 腹が立つなんてものではない事は想像に難くない。 岡庭村長には直接詰めたであろうが、阿智川会長や操氏には逆のメンツがある。

 時雄君は硬く決心した
 「頼むから分ってくれよ」 岡庭村長は一生懸命言い訳しただろう。が、彼の性格はそれを許さない。 全ての憎悪は当然のごとく私に向かう。
 章文をやっつけるには、『資料館は絶対に造らせない!』こと、それが彼の一番の目標となった。

 12月に入ると様子が変わった
 岡庭村長から電話がきた。「建てる場所だけど、他ではどうだろう。園原に限らなくても、たとえばヘブンズの駐車場とか考えられるかなあ?」 計画は順調に進んでおり、もう10日もあれば提出できます。その様な問題が有ったにしても、事業が確定してからも検討できる事ではないでしょうか。当初約束した期日には提出しますので。

 それが時雄君の始まり
 『ふれあい館(門前や)の横に建てると操議員が思うようにしてしまう』『建設地の下側地主が、ゴミが落ちてくる、田んぼに日が当たらなくなると反対している』と議長に注進しているとのことは聞こえてきていた。
 操氏に対しては、『議員なのに自分が営業しているふれあい館に一体化させるような計画はおかしいじゃないか!豆腐事業も1,000万補助を受けているのにまだそんな事を考えている』と牽制しだした。

(ヘブンズの駐車場に建てろ!というのは、園原に建てる必要なし!との叔父の意見)

 2月の協議会
 岡庭村長から電話が来た。「計画書ありがとうございました。よく出来てるし、3億5千万で出来るんなら安いもんだ、予算が付き次第建設するが、設計は始めてもらって良いから。」 これが、12月に園原資料館計画書を提出した後に掛かってきた電話です。(岡庭村長に直接届けたのが顧問)
 2月に掛かってきた電話の内容。
「園原資料館の事だけど、ちょっと違う名前にしてもらえないかなあ?」 どうしてですか? 「特にどうとかじゃないけど、協議会にいきなり園原資料館で出すと文句を言う議員が居るかもしれん。表紙だけで良いので園原史跡案内館とか園原史跡観光とかにしてもらえないか。いや、内容は何も変えなくて良いから、頼む、今日の午後会議が有るから間に合うように届けてもらえないか。」  この時すでに時雄君の言いなりになりつつあった。

 時雄君の動きは読めていました
 村長さん、計画書の名称でそんなに拘らなくてもよろしいんでは? 表紙一枚剥ぎ取ればどうでしょう。計画図や予算書には名称は入っていませんから。今言われたように、そのような施設を考えているが で今の段階はよろしいんでは
 あ、そうかそうか、分かった。
これは先が思いやられるな・・ 阿智川の会長に報告しました。「時雄が邪魔しとるのよ、あいつはのけ者にされたように思っているから、いいは、俺の方から話しておく。」 会長、時雄君はそんな程度の考えではないよ。絶対にこの話し、つぶしに来ますよ。

 確かにそうだ、あいつは言って言うこと聞くやつじゃないからな
 岡庭村長は四人との約束は破れない、そうはいっても時雄が言い出したら手が付かない事も知っている。困った、困った の中にいた。時雄君のやり方に目をつぶるしかなかった。
 来年度事業として議会に上げる。
その役目を時雄君がやるようになったらしい、村長が、平議員に押さえつけられたのだ。 行き先は見えている これで園原資料館も絵空事になった。とあきらめた。
 果たしてその通り。
議会(全体協議会?)に時雄君がその目的と内容を説明し、時雄君が時期早々と下した。まあ、呆れたもんだが、この時すでに議会の体が崩れていたことも確かである。(議長は誰かな?)

 これで収まる話ではない
 2月11日、火渡り行事の当日岡庭村長はふれあい館(門前や)の食堂内、園原部落の人たちが居る中で私を呼びつけこう言いました。 「章設計さん、知っていると思うが俺はガンでもう駄目だ。」何を詰まらんこと言っているんですか。 「ついては、園原資料館の事だが、前にも言った通りつまらん事言う議員がおって、NPOの羽場に研究させているんだが、ここは場所が悪いというんだ。場所をこの横の田んぼに建ったらどうかなあ?」 前の田んぼ? 秀二さの田んぼと千鶴さんの田んぼへ?ですか。「前の案は前の案で良いんだ!だから二つの案を出して議会に決めさせたいんだ。」 そんな中途半端な考えで進めるわけにはいきません。私も様子は聞こえてきました。時雄が羽場を抱き込んで進めさせているんでしょ。時雄の考えで園原のこと何も知らない羽場が、差も専門家だ!とのカッコづけでNPO法人だとは理解出来ませんが。村長、どうなんです?もうそこで動いていて、章設計がふれあい館の前に建つ案なら他の設計事務所に秀二さの田んぼに建つ案で計画させる!と聞こえてきましたよ。

 いやそうじゃない
 「羽場は資料館の事をうまく進めるためにやらせているだけだ。説明するにも他の団体の意見が有った方が良いじゃないか、設計はあれでいいんだし、場所で文句が出ないために場所だけの問題だから、この前に建てる配置図だけで良いから何とかお願い出来んか。」
 そんな簡単にはできません。
前の田んぼと言いましたが、地形も範囲も違いますから改めて測量しなければ始りません。「まあちょっと現地を見るかな。」 提出した計画書で使えるものは何もありません。この場所で計画せよ!と言われるのであれば、決定事項として下さい。前回の計画書と比較する、双方の案で検討する、そんな進め方をされるようなら出来ません。
「分った、それでいいから、なるべく早く書いてもらえないか。」 測量で三日、作図で一日、それから計画に二週間、二十日から一カ月くらいは掛かります。

 様子が変わってきた
 計画が中々まとまらない。標準測量と作図で現況を把握できたが、ここに資料館を建設することは困難である。
時雄君は事前に熊谷秀二(父の従弟)さんと話しを決めていた。 建設用地だけでなく、その用地に付帯する全ての田んぼを村で借り上げると約束していました。
 それは無理もない。必要な田んぼだけ売ってくれ! なんて急に言われても、残った田んぼで米作りなんて出来ない。
田んぼを耕作しない!百姓を止める!としか判断できない事。
 時雄君は『売ってくれ』と言ったようだ。秀二さんは、売ることは出来ない貸すのであれば、と対応したようです。 (平議員がここまでの話が出来る!事に驚きませんか?)

 もう一つの問題
 熊谷千鶴さんの田んぼ、千鶴さんは嫌だと言った。ふれあい館(門前や)の時にも畑を提供している。だから残った土地を畑にしようと、それを手放すことは悲しい。
 この事、私はそのまま伝えました。
岡庭村長にも、水上宗光参事にも だが二人は意に返さずどころか、その話を聞いた時雄君は熊谷操議員を使い、千鶴さんに圧力をかけた

 千鶴さん ここには建てないよう村長と話をするから!と伝えに行ったとき、それはもう諦めの言葉となっていた「操さからあんな風に言われたらわしゃあおっかなくて・・
こんなこと、理事者や議員としてやれることでしょうか? 人として出来ることなんでしょうか?

 私からゴネました
 よほどその話をしようかと思いましたが、こんな人たちであれば千鶴さんにまた何かが有っては とおもいとどまりました。
 村長、この用地は狭い上にこれだけ段差が有ってはどうしようもないです。その上千鶴さん家の真ん前だし、どうしてもここに建てるとなれば先に部落会で了解を受けなくては、部落の人たちは何も知らないのですから。
 測量図面が完成しており、一連の説明はその測量図面を見ながら行った。
 村長の対応は。
「そうか、難しいかやっぱりな。分かったわかった、いいはそれでは。」 やはり最初の計画通り、ふれあい館の東側しかないですよ。 「そうだそうだ、それで進めるか、あい分かった。」

 そこから連絡が取れなった
 岡庭村長はその時すでに動けなくなっていたようです。園原資料館建設事業計画は既に熊谷時雄議員と水上宗光参事の手に渡っていたのです。
 熊谷秀二氏と賃貸仮契約を結ぶ。
私は千鶴さんが、『土地を売るのは嫌だ』と話されたその足で熊谷秀二さんに会いました。そして今までの経過を話しました。裏話しも全てです。 でも、ぐずぐずしているだけ、私はその態度で全てを察しました。
 田んぼ作りをやめる事。
その時すでに仮契約は終了していました。 「村は売ってくれと言った、資料館を建つ田んぼ二枚だけ。だけど一番良い田んぼ二枚売ってしまったら残った田んぼで米は作れない。」

 だから条件を出した
 売ることは出来ない。貸すんなら考えてもよいが、一番大事な田んぼを貸したらもう米は作れない。その上にある二枚の田んぼも含め全部借り上げてくれたら考える。

 そして契約書は取り交わされた
 その事はすべて熊谷時雄議員が扱った。水上宗光参事に契約書を作らせ、時雄氏と熊谷修二氏とで契約を交わす。
時雄氏はこの事、違法行為に充るかどうかも考えていない。 何でも出来る!と、まるでデタラメである。
 この事、岡庭村長は知っていた。
時雄氏の作戦なのだから当然であるが、契約が成されてどうしようもなくなり、この土地に計画せよ!と、私に指示したのです。
 私も知っていた。
知っていたからこそ、正当な進め方を岡庭村長に進言したのです。

 章設計を無視する
 岡庭村長にはそうするしかなかったのだと思いますが、この頃既に時雄氏の言う通りの気持ちと成っていたことも事実だと思います。
 ここから登場します表の主人公羽場睦美氏。
 東山道NPO法人何とかかんとか? そんな名前の法人会社が出来ました。その説明を園原会(私が入れない会)を開催して説明する。との話しが聞こえてきました。
ああ、始まったな と思いました。 岡庭村長に電話を入れました。 そんな話を聞いたのですが、まさか、資料館の話しではないですよね。 「いや、そうじゃない。東山道の事だ、羽場はそういう事をやって来た人間だ。だから園原の東山道を調べたいと言うから部落に紹介したいんだ。」 東山道の事?そうですか、親父がつくった東山道復興会がありますが、そこに話しが無くて園原会と話しをするんですか? 「いや、東山道復興会にも呼び掛けるよう言ってある。」 ああ、そうなんですか。じゃあ私が出席してもよろしいんですね。

 それは全然かまわない
 園原会に私が入っていない!って事は岡庭村長は知っていましたから、そう言うしかなかったのだと思います。
羽場睦美氏が同伴してきましたよ。
 岡庭村長は羽場氏を目いっぱい持ち上げました。
良く恥ずかしくもなく私の前に顔を出せますね・・そう思っていましたが、そういう感度は持ち合わせていないのでしょう。 まあ、純粋なんでしょうね
 園原の事なんか何にも知らない人、東山道が何たらかんたら言ったって、へえ~ なんて聞く人は誰もいない。
資料館の話しをしたかったのでしょう、でも私が顔を出す!ってなったから急場しのぎをしたんです。

 岡庭村長の持ち上げ話しの方が長かった。 まあ、この人たちの考えそうなこと、時雄君の考えでしょうが、こんなやり方で私の目を誤魔化せると思っているのが、お粗末様でした。

 東山道NPO法人
 そう始めたから、そこから進めるしかなく色々な文献をかき集め、それをさも自分の知識だとして持ってまわったやり方から始めました。
 それはまず三浦教育委員長に寄り添うことからでした。 三浦氏はその時までに岡庭村長・時雄君らに取り込まれておりましたからわけは無かったと思います。 文化財はもっと簡単な事、この人たちは作為を持たないから、言う事を聞く振りをして居ればよい事、後は持ち前の処世術、話し方に角がないから “ おだて ” がうまい。

 でもボロが出る
 それは無理でしょう、園原の人ではないのですから。 園原のどこが東山道なのかも想定で話しちゃうから笑っちゃいます。 部落の中でも知っている人なんか誰もおりませんから、通用するように感じていたのではないでしょうか。
 砂鉄の話をご存じな方は、羽場氏の言動のいい加減さを知っている人かな。
炭焼き吉次は炭を焼いていたのではなく、実は砂鉄の製造をしていたんだ!園原川が赤いのは鉄分を多く含んでいるからだ!それで砂鉄を製造して証明します! と、ぶち上げ、たしか南信州にも大きく取り上げられていたかな
 そのお方が、『園原資料館を基本計画からやり直す学識経験者だ!』として園原部落に話が有ったかどうかは聞いていませんが、“ 部落に了解を取った ” として、いとも簡単に進んだのでありました。
 それが知らぬうちに博物館構想となり、そして全村博物館となっていきました。

 全村博物館構想
 羽場さんも気づいたんでしょう。園原資料館として進めていけば理想的な考えは章設計に追い付かない。だからして資料館ではだめだ。それに、東山道NPO法人を設立したからには、阿智村の歴史そのものを背負う形でなければメジャーデビューは出来ない。そのためにはもっと大きな目的とすることが必要だ! それには博物館しかない! とね

 どうでしょう羽場さん、私のこの指摘 当たっているでしょう!その通りでしょう!

 博物館と目的を定めた
 これは羽場さんが決めて岡庭村長と時雄君に相談を持ち掛けた。 二人とも、「それは良い!最高だ!これなら章は何も文句は言えない。」

 そして絵空事に
 これで完全に園原資料館は消え去りました。 正直思いました。『なにも無かった事になって欲しい』
だがしかし、園原資料館建設はその時すでに年度事業と議会議決されており、建設することは間違いのない事でありました。 資料館の内容整備としてその価値を一層上げるためには、今まで進めてきた園原資料館建設計画書では網羅(もうら)出来ない。今後は博物館として展開しくことが飯伊一帯を良い意味で巻き込むことが出来るのはないか。それこそが阿智村と文化財共通の方向性である。と、されたようです。

 そしてまたもや大風呂敷が
 岡庭村長が教育委員会と文化財を横に従え、『東山道NPO法人羽場睦美代表は阿智村全村博物館構想の立役者だ』と言っちゃうもんだから、羽場さんの描いた通りに全権をもって進んでいくことになりました。
 羽場さんも大したもんです。
その時点でもう、三浦教育委員長は身の振り方を見極めておりました。 東山道サミットなるものを立ち上げ、その会長におさまるとあとはもう、三浦さんからは羽場さんのヨイショしか聞こえてこなくなりました。

 そんな中でも無理やり参加して都度意見を言わせてもらいました
 『阿智村全村博物館構想と博物館建設について』 行政・教育委員会・文化財・飯田下伊那資料館博物館見識者が一堂に会して、阿智村長に全村博物館構想の提案を正式に要望する! なんて会議が開かれました。
 当然参加しました。
三浦さんの羽場さんヨイショから始まったサミットは、羽場さんの独演会でした。 空しかったですねえ 中身が薄っぺらくて出来レースなんですから。
 ささやかな抵抗をしました。
『園原には博物館は不要です。資料館でも博物館でも、そして全村博物館構想成るもので有れば、それは例えば昼神温泉とか、その様な情報発信が必要な場所で展開されることを要望します』

 羽場睦美さんの暴走(時雄君も並走)
 舞い上がってしまったのでしょう。曲がりなりにも飯田下伊那に声をかける、かけたという形になったことで彼自身が驕ってしまったと思います。
 どんどん進めていきました。
『全村博物館を構想するには世界に例をみる!』 日本には全村挙げた博物館構想は存在していない、強いては世界に目を向ける必要が有ります。 とか何とか言っちゃった のではないでしょうか。
 岡庭村長の浅はかさ。
そこで一言言えば良かったこと。 『まあ待てよ羽場さん、まだ提案されたばかしの事。考え方のバックアップは出来るが予算を付けるとなると議会承認が必要となる。それには村民に理解納得させるそれなりの計画書と効果が明確に示されていなければならない』

 そんな事、当たり前のことでしょう
 羽場睦美さんは大手を振って海外に出かけました。 その費用、その後の事、当然関心のある村民の皆様は知っていると思います。
 関心のない村民は何も知らないのでしょうか?
なぜ関心がないのでしょう それは、村は公明正大で、間違ったことはやらない!出来ない! と、そう信じ切っているからではありませんか?
 村会議員がいるじゃないか。
村会議員が付いているんだから、村会議員は正しく私たちの一票に応えていてくれる! そう思っているから関心がないのです。

 では関心のある住民はどうするのでしょう
 そのような事に理解を示し、時によっては協力される方もいると思います。 それは大切な事ですが、実態や実質をも知る由に成らなければ、それはまた考えが変わっていくことにもなりかねません。
 最初から、「これはおかしい」とか、「やる必要がない」と、思われる方の多くは、その進め方やお金の使い方に疑念を抱くからではないでしょうか。
 どちらにしても。
行政が何事かを進めるにはお金が必要です。新たな何事かを進めるには最初にその計画書が示され、その目的と効果が十二分に反映されるとの住民判断が必要です。

 それをその通りに進めれば問題ないが
 往々として、一般の住民に理解されるように行われていないのが実態ではないでしょうか。
それはどうしてか?! 何故公金がいとも簡単に支払われるのでしょうか?
 羽場睦美さんは、それなりに一生懸命取り組んだと思います。 欧州視察の報告もそれなりに行われました。レポートもまとめていたとも思いますよ。
 一方通行では何も評価されません。
羽場睦美さんは岡庭村長から何を依頼されたのでしょうか? この事明確に公文書やり取りされているでしょうか!? 行政と民間での契約事項では文書と委託契約書が存在します。 羽場睦美さんはNPO法人の代表です。
非営利団体であるNPOが収益を得ることを行う場合は、その目的が明確かつ必要な行為でなければなりません。まして公金が支払われるのであれば、計画書の確認、承認は議会に於いて行われていると思いますが、その前後の日付に相違がないことを願います。

 欧州視察の批判
 当時、私は欧州視察について何も批判していません。 良識ある住民と役場内の声は聞こえてきていましたが。
質問状の詳細説明で、羽場さんの姿勢については批判しています。
 羽場さんの考え方と成果品。
章設計が提出した園原資料館計画書、『それに沿って進めます』 と、私に了解を得ています。 それは当然のことでしょう。 羽場さんは設計士ではないからで、あくまで熊谷時雄氏や文化財との調整役に徹していたからです。
 建設場所を変更する。
熊谷時雄氏は羽場さんに、『建設場所を代えるから理由付けをしろ』と指示しました。羽場さんは、『活断層の危険性』というテーマでその事を取り扱おうとしました。 他所から来た人が、専門家でもあるまいにその様なテーマで取り組むこと自体に無理が有りましたが、園原の人たちを言い含めるには簡単な事でした。

 羽場さんの言い訳
 『章設計は設計が欲しいだけで安易に進めすぎる。自分の仕事になることしか考えていない!』時雄君の吹聴です。
園原の若い人たちは殆どそれに同調しました。 そう言われればそう考えてしまうでしょう。
どんなに園原部落を中心に考えても、その一言で誰一人見向きもしなくなりました。
 神坂峠での遺物は園原に在ってこそ生きるもの!
暗い、元信用金庫の金庫室に眠っていてもそれは只の封じ込め、原文化財委員長の個人感情で対応しているだけである。
 その事を羽場さんは理解してくれました。
『大丈夫です。私の報告書の考えに収蔵庫と展示室は計画してあります。章設計さんの考えの中で資料館としてまとめています。』 文化財に対してはその事を前面に出していません。今その事でやりあっても前に進まないと思うので、そこは分かってください。とまで言われました。

 羽場さんでは巻き込まれてしまう
 歴史的なロマンはその世界の人にはとても魅力的なことでしょう。羽場さんはまさにその魅力を実感し、より良く進められるよう園原にも何度も足を運んでくれました。 だが、時雄君や岡庭村長の思惑は別のところ 羽場さんは彼等の駒に過ぎず、私の考えに同調するほど羽場さん自体の考え方がまとまらなくなっていきました。
 その方向転換が博物館構想報告書です。
欧州に視察に行きたい!と、水上参事を通して岡庭村長に伝えた頃には、資料館なのか博物館なのか、はたまた峠の遺物はどこかに飛んで行ってしまいました。

 羽場さんも舞い上がったのでは
 羽場さんにとってはある面チャンスであったろうと思います。野外活動何とかは継承してきたものであり、自身の歴史的な考察の世界とは離れている。それが、園原という伝説の宝庫に公的な立場で介入できる、それも破格な手当てが有るっていうのだから。
 博物館構想までいってしまっては?
セブンイレブンの前に在る羽場さんの事務所を訪ねました。 『羽場さん、園原資料館を博物館構想にまで持ち上げてしまっては違うものに成ってしまうのでは?』

(注釈:文化財の正式な呼称は文化財審議委員会、教育委員会の諮問に応じ答申する委員会です)

 それは誤解です
 熊谷さん、心配しないでください。博物館構想は園原資料館をどうのこうのというのでなく、阿智村全体を古代東山道に沿って伝説の村と位置づけ、その中で園原資料館を展開していきます。
 博物館は資料館のように小さな展開ではないのです。
阿智村だけでなく、飯田下伊那を巻き込んでもっと大きな展開をしようと考えます。市長をはじめ人脈をフルに生かしてやりますので、大きな波を起こさないと駄目だと思います。
 大風呂敷に聞こえてならなかった。
神坂峠の遺物を 開膳寺に眠っていた遺物を 元の場所園原に戻したい
そんな願いがどんどんと周りの思惑で消えていってしまう・・・そんな不安を感じました。

 不安が的中
 早い話が、羽場さんにとっては園原資料館は、“二の次” ということです。 羽場さんとしては自信が有ったのだと思いますよ、何といっても岡庭村長の後ろ盾が出来たのですからね。 時雄君なんて専門的な知識は皆無で有り、私怨の塊何てことは既に読み取っていましたから軽くいなしておけばよい、なんて程度でした。(まあそこが有ったから相談してきたのですがね)
 文化財の考え方。
文化財では実行権限を持っていない。あくまで教育委員会の進め方の中で一般論として対応するしかない組織です。
村長は直接文化財と対峙するようなことはありませんから、有って無いような組織と捉えられても仕方ないでしょう。

 文化財の委員さん達
 委員さんに選出される方は、やはりその道に長けている方達だと思います。ですから論理的に解釈して史実と事実を見極めることが出来るのだと思います。
 だが“いっこく”
先生上りが多くなるからやむを得ないところもありますが、“融通が利かない” ってことも。 時にはそれが正しい方向へと進むことにもなりますが、場合によっては、“独りよがり” として煙たがれることの要素ともなってしまうのではないでしょうか。
 阿智村ではないでしょうが。
世間ではこんな不届きな話も聞こえています。 『貴重な物』が発掘された場合、研究だ!とかの名目でそのまま帰って来ない。 保管する!としてあった物が知らないうちに、『行方不明』となっていた。

 深刻に考えない
 羽場さんは、“その辺” を理解していたから、あまり深刻に考えなかったのだと思います。 神坂峠の遺物は簡単に借り出せるものと考えていたようです。 だがしかし、文化財はそのような考えは一切なし(この辺が心配される事)
『貴重な物』 この言葉が全ての答え! こう言えば、こう言われれば、受け止める側にその知識が無い上では言われるままとなってしまいます。
 果たしてそのとおりに成りました。
開膳寺から阿智村へは帰りました。(この事、私が主張したからこそできた事です) 阿智村から園原へは帰りませんでした。 『貴重な物』として、元飯田信用金庫駒場支店金庫室の暗いくらい部屋で眠りについたようです。
 これを頑なに主張したのが、原孝雄文化財委員長でした。

 三種の神器 『鏡』
 これは今どうなっているのでしょうか? この鏡が園原で発掘された! この事、真剣に研究される方は居られるのでしょうか? 『日本の歴史が変わるかもしれない!?』
 それ程の事として捉えていないのでしょう。
それ程の事として考えられない人たちが、発掘された遺物を扱っている! この事の方が残念でたまりません。
 文化財の委員の方々に物申したいと思います。
この鏡、元信金の金庫室に眠っておりますか? 心配です。 眠っておられるようでしたら、その分野の方に是非研究をお願いしてください。 新たな園原伝説の夜明けのために

 園原資料館建設場所の発掘
 園原資料館に付帯する便所棟(章設計設計)が原建設請負によって工事着工となりました。 重機を入れ整地工事に入ったところ、『鏡』が出土しました。 この鏡、歴史教科書の、“三種の神器の鏡” にそっくり!
 工事の中止。
とんでもないものが出てしまった! 関係者はそれなりにそのように感じたと思います。
工事は中断され、文化財からは当然のごとく、『園原は埋蔵文化の里』であるにも関わらず、なぜ事前に発掘調査を行わなかったのか! と、詰問したと思います。 それに応えられる人は岡庭村長を始め誰もおらず、そこからは文化財の指導の下発掘調査を行う方向に進んでいきました。

 私は事前に指摘していた
 当初予定していた建設場所はもともと沢谷に盛り土した田んぼ、埋蔵物は何もない事は門前やの建設時に分かっていました。 時雄君の考えだけで決めたこの場所は、まさに文化財の事前了解を要するところだと。
 後先に成れば文化財委員の立場がない。
羽場さんもお立場が危うくなったと思います。しばらくは無視状態であったかと。
 めげない羽場睦美さん。
またここでとんでもない事を言い始めました。 それは、『断層の発見』

 似非の連続
 何を血迷ったのか、発掘された遺構に断層が発見された! と言い出したのだ。 園原に断層が? 誰でも耳を疑いたくなる。 新たな断層と成れば、園原の地積を根底から覆すような大きな発見、清内路断層は中央道恵那山トンネル調査において既に明らかにされている。
 念のために見に行きました。
発掘された遺構を覗き見れば、それは居住跡と見受けられる。 掘削土層は、どう見ても田んぼ用に整地した盛り土。
そこにわずか、“何か” が流れ込んだシミのような痕跡が有りました。 それを、『断層』ではないか! と言い出したのであります。

 なぜこんなことを言い出したのか
 『鏡』が出土したことで、園原はとんでもない場所であるかもしれない!と原文化財委員長は考えたのではないでしょうか。 そしてそれは、園原資料館建設が如何に間違った場所に建設されようとしているか!の方向に流れました。 羽場さんは、この場所にと先導した。そこにいくらかの自責の念と、立場の危惧を感じて、“何か”を探さずにはいられなかったのではないかと思いました。

 発掘調査の結果
 羽場さんの断層主張は文化財では相手にしていなかったと思います。日々進められる発掘の成果に気がいっており、“何か出るのではないか”が一番の事であったかと。
 長い期間と高額な費用をかけ発掘は続きました。
その結果は報告書としてまとめられ、『この遺構は残す』とされました。いや、そのように聞こえてきただけでした。
 報告書は存在しているのか?
私は岡庭村長にそのように問い合わせました。その時、何も答えることはなく、「裁判でも何でもやればいいじゃないか!お好きなようにやれば。」このような情けない言葉しか返ってきませんでした。

 報告書は存在していない
 発掘は行われており、それも専門家が指導している。村もそれなりの費用を支払っている。報告書でもって成果品とされた。 この時点では、たしかに報告書は存在しています。
 ではなぜ? 報告書が消えてしまったのか。
これを考える前に、何故? 章設計に、『園原資料館建設は中止する!』と伝えられたのか。を知るべしでしょう。
 熊谷時雄氏の個人的な恨みがその背景に有ったとしても、中止するとして契約業者に宣言するには、それなりの『中止の理由』が無ければならない事。 また、『その根拠!』も示されなければならない事。

 デタラメな人たち
 岡庭一雄・水上宗光・熊谷時雄 思想三人衆です。 この三人に社会のルールやマナーは存在しません。うそを言うこともいとわない人たちです。
 朝飯前のこと。
園原資料館建設は中止します!』 そうハッキリと告げられました。それも庁舎内、他の職員がいる真ん中で
その言い訳がまたすごい! 「羽場睦美さんが、『遺構を残すと決めた。此処に建設することはない!』と言っている。」 執行権を持っている水上宗光参事がこのようにおっしゃいました。
 羽場睦美さんが決定権を持っている?
このように言われますと、中止の理由は羽場睦美さんが、“そう決めた” と、言っていることが根拠ですよ~ということになります。

 これを押し通さないからまたすごい
 この様に聞こえた私は、水上宗光参事に突っ込みをした。 『羽場さんが、此処に建設をすることはないと言っているんであれば昼神温泉にでも造ってください。便所棟の設計料は要りません、遺構を保存する費用にまわしていただければ嬉しいです』 「いや資料館は中止です、建設しません。設計料はそれに充てなくても・・・教授からも(発掘した人)報告書が出され、遺構は非常に貴重でこれから研究が必要なので残すようなった。あそこはそのままの状態が続くけど、いづれは何か考えないと、設計料はほんとに良いんですか?」
 羽場さんじゃないじゃん!
発掘指揮を執り、高額な費用を受け取った教授が報告書で上げた内容が根拠なのだと言い換えました。

 この時すでに決めていた。
園原ビジターセンターと名前を変えて、この場所に建設すると決めていて、この様な話しが出来るのだからビックリします。 誰でも信じちゃうでしょう  この一月後の1月9日にインターネットで公示されました。

 そして計画通り進んでいく
 それからは他のコーナーでも書き出した通り、彼等の思い通り進んで行きました。
 文化財はなぜこんな愚行を了解したのか?
この事がとても不思議で残念な事でした。 原さんはこの時副委員長、委員長は弟の原さん、『園原は埋蔵文化の重要な里』として、何事にも原兄弟の許可なくしては出来ないとされていました。ですから手紙を書きました。
 何の音沙汰も無し。
本当に何もしてくれませんでした。報告書については、園原の人間として見せていただきたいとお願いしてありましたが返事も成し、全く無視されております。
 
 名誉村民表彰
 村長の権力とは凄いものなんですね。 まあ議会も思い通りに成るんだから、文化財程度なんて知れたもの。ほんのちょっと人事を口に出せばどうって事はないんでしょうね。
 所詮こんなもの。
学術的になんたらカンタラ・・・ “うんちく” だったんでしょう  誇りの欠片もありません。
 それでもいくらか気にしたのかな?
いろいろが方付いたと思ったんでしょう、その二年後かな、原孝雄さんは『名誉村民』となりました。
付け加えますが、『阿智川の会長と叔父が一緒に名誉村民となっております』 大盤振る舞いか、見返りか

 岡庭村長の姑息な手法
 この三人にはそれぞれ世話になった だからこその “表彰“
原孝雄さん : 文化財審議委員会を黙らせてくれました まあ 自らが黙ったんだけどね
阿智川の会長さん : 同房相憐れむ
叔父 : 身内として情報をくれた
 熊谷時雄議長の姑息なだんまり
原孝雄さん : この人には負ける、だから敵とみなして三浦さんを抱き込んで場外戦だ
阿智川の会長さん : 古い付き合いで操氏を裏切らせて60票ももらっている、だから何も言えない
叔父 : 温泉掘削・園原水子地蔵と裏切ったのはまだ二回だけ、欲は一緒、だから助けてくれる

 作り上げた体裁
 章設計に設計をやらせない! と言う時雄君の気持ちに答えて、数々の不正を積み上げてきた岡庭村長
 不正は力なり!
共産党なんだから、正義は我にあり! だったんでしょう。 作戦は見事にはまり、章設計に何も言えなくした。
 力は権力なり!
文化財だろうが業界の実力者であろうが  村長の権力は凄いの一言  議員でさえ、お仲間となれば一心同体

 裁判に掛けられるとは考えてもいなかった  そこで慌てて手当てした

園原の埋蔵文化を蔑ろにしたわけじゃない  鶴巻荘での謀議に蓋をしたわけじゃない  章設計を黙らせたわけじゃない

 名誉村民に値しますか?
 園原の埋蔵文化をないがしろにされるのを黙認した。 寄付した500万は十分な工事費で返してくれた。 村の金で人の金で収益は自分のもの。

 何か間違っていませんか? 間違っていますよね! そうなんですよ、十数年前から間違っていたんです。

自民党県議が共産党員を村長にした! 共産党の村長は共産党員と独裁行政をした!! 文句のある奴は共産党員の弁護士でやっつける!!!    どこにも正義の味方は存在しませんでした

E                        N                          D

 大和朝廷と園原の関わり  熊襲退治とヤマトタケルの関係は  三種の神器とは
 ヤマトタケル(日本武尊)はなぜ園原を選び望んだのか  三種の神器と園原
 源義経は落ち延びるときなぜ園原を選んだのか  園原に滞在したのではないか  義経と三種の神器

 

阿智村 岡庭一雄前村長の不正

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